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Architect's magazine

広く建築や都市、そして人々と真正面から向き合っていく。未来のために職能を生かすのが僕たち建築家の役割なのだから

広く建築や都市、そして人々と真正面から向き合っていく。未来のために職能を生かすのが僕たち建築家の役割なのだから

迫 慶一郎

「中国で最も活躍する建築家の一人」。多くのメディアは、迫慶一郎をそう称する。事実、迫がこれまで手がけたプロジェクトの8割以上は、中国での仕事が占める。それも、都市のランドマークになるような巨大プロジェクトばかりだ。現在は北京、東京、福岡の3拠点に事務所を構え、ロシアや中東などからもオファーが舞い込んでいる。44歳と、業界にあっては若手ながら、世界に羽ばたく様は華々しい。しかしその裏側には、すさまじい働きと、どのような逆境にも屈しない〝挑み〞の連続がある。「建築家の本分は社会に貢献し、未来をつくること」。そう言い切る迫は、今、建築家という枠を超えて、震災による被災地復興や、企業のブランディングも手がけるなど、マルチな活動に精力を注ぎ込む。常に全力疾走――それが、迫の生き方だ。

文武に長けた少年。建築家という職業に早くから憧れを持つ

7歳の時、航海士だった父親と早すぎる死別をした迫は、母方の実家がある福岡県春日市に移り住んだ。同地には溜池がたくさんあり、水場や自然に恵まれた環境で、迫は伸び伸びと育った。経済的に楽ではなかったが、3人の子供たちに苦労を感じさせず、何でも自由にさせてくれた母親。そのバイタリティは、迫自身が受け継いでいる。

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実家の庭とつながる白水池(しろうずいけ)の水面。少年時代の遊び場であり、原風景のひとつ

働きながら、いつも忙しく動き回っていた母に負担はかけたくないなぁと思いつつも、けっこうやんちゃでした。僕は器用なほうで、スポーツも勉強もできたものだから、ちょっと生意気すぎるところがあって、学校の先生に食ってかかったりね。高校生の時には、流行っていたマージャンをやっているのを見つかって、担任にビンタ食らったり(笑)。でも母は、僕のすること、望むことをいつも信じて支えてくれた。今でも頭が上がりません。

春日市は野球が盛んな地で、僕も小学生でソフトボールをやり始め、以降、ずっと野球少年です。福岡県立筑紫丘高校の野球部では副キャプテンも務めました。僕は足が速かったし、器用だから、守備はどこでもOK。ただ小柄なので、レギュラーになるために、人一倍努力したのも確かです。

3年の夏、甲子園を目指した県大会準々決勝は、忘れられません。9回裏敗戦ムードが漂うなか、僕は先頭打者として打席に立ったのですが、息もできないほどの重圧を感じたものです。でもそれを跳ね返し、ヘッドスライディングで出塁。結果、ゲームの流れが変わって逆転勝利できた。「歯を食いしばり、本気で取り組めば不可能はない」――そう思えた瞬間でした。野球部時代に培った経験は、今も仕事をするうえで、根底に息づいています。

迫が「建築家になる」と決めたのは、小学校5年生の時と早かった。趣味ながら、庭の灯籠や池まで自作していた祖父の影響があるのだろう。近所で頼もしく家を建てていく大工の姿にも憧れていたそうだ。以来、職業観に変わりはなく、迫は大学進学にあたり、当然のごとく建築学科を志していた。

最初は、九州大学を受験したんです。しかし、現役合格ならず。野球に打ち込みながらも、成績は悪くなかったし、ずっと望みどおりの人生を送ってきたから、どこかで「自分はちょっと特別」みたいな意識があったんですよ。初めての挫折でした。ショックで何もする気になれない幽体離脱状態。それが3カ月くらい続いたでしょうか。ある時、ふと立ち寄った高校の野球グラウンドで、後輩たちが必死に練習している姿を見ていたら、滝のように涙が出てきて……。それで現実を受け入れられ、真剣に野球をやっていた感覚が戻って、一気にラクになったのです。

今思えば、挫折があってよかった。すんなり現役合格していたら、僕はとんでもない勘違い野郎になっていたかもしれない(笑)。人生って、そんな偶然の積み重ね。どこかを切り取れば、人はいつも岐路に立たされているものだと思うんですよ。

で、翌年に合格したのが東工大。母には〝事後報告〞でしたが、この時も何も言わず、上京させてくれました。
入学早々、勧誘されて体験試乗したヨットがすごく面白くて、さっそく入部。海で日焼けした集団がカッコよかったし、今度は、自然を相手にするスポーツに夢中になりました。ただ始めてみると、だんだん学校に行けないことがわかってきた。合宿生活が長く、一番練習していた時は、半年間くらい海にいますから。加えてヨットはお金がかかるので、バイトも忙しい。留年しなかった学生のなかでは、僕、ダントツで学校に行っていないと思います。

選手としては大したことはなかったけれど、海が何なのかを知ったのは、僕にとって大きかった。本当に美しいと思う瞬間、そして命の危険を感じる瞬間、その両方を何度も味わいました。この時の経験がのちの仕事に生きたし、今、力を注いでいる震災復興のプロジェクト「東北スカイビレッジ」構想にも影響しています。本当に、すべてはつながっているんだと思いますね。

意中の師匠に就き、トレーニングを積む。鍛えられ、開花した才

意中の師匠に就き、トレーニングを積む。鍛えられ、開花した才

意中の師匠に就き、トレーニングを積む。鍛えられ、開花した才

ヨット部の活動に熱中しながらも、そこは迫、学業にも力を発揮している。建築デザインを志向していたことから、設計課題にはことさら熱心に臨み、高い評価を受けていた。4年の時、建築デザインを目指す学生たちが最も憧れていた、坂本一成教授の研究室に所属する切符を手にし、そのまま大学院に進学。ここから迫は、建築家としての基礎を鍛え上げていく。

坂本研究室には、院生なのに建築デザイン誌で紹介されているとか、博士課程にある人が実際に住宅を設計して発表しているとか、とにかくすごくて、ほかの研究室は眼中になかった。だから入れた時は、嬉しかったですね。もちろん、厳しい研究室ではありました。初日に会があって、新人たちはそれまでに取り組んだ設計課題をみんなに説明するのですが、まず、こてんぱんにやられる。コンセプトを語るのなら、人を納得させる鋭い切り口や、新しい発見がなければ面白くないと。出している課題は、それなりに評価を受けたものだから、こっちとしては「どうだ」くらいの気持ちでいるのに、プライドは木っ端みじん(笑)。でも、言われたことには、それこそ納得がいく。意識の高い人たちが集まっていました。

坂本先生は実務家でもあり、学生たちと一緒にコンペ作品をつくるんですけど、僕らはM1の時に3回も参加させてもらって、これも貴重な経験になりました。坂本先生に直接教わったことに加え、すごいなぁと思う先輩たちのなかで揉まれ、一緒にいられたことは、大きな財産になっています。

僕は、街を分析対象にして〝新しい街のあり方〞を研究していたのですが、なかでも惚れ込んだのが「緑園都市」を設計した山本理顕さん。そこには街としての相互作用と、持続可能な活気がある。僕がやりたいと考えていたことのど真ん中をやっている人、そのもとで仕事したいと思い、坂本先生に相談したら紹介してくださった。大変な緊張感で、山本さんの事務所に、卒業設計と修士設計を手に面接を受けに行ったのです。すると途中から、作品に対するディスカッションになってきて、「学生がつくったものを、こんなに真剣に見てくれるんだ」と感動ですよ。「合格」とは言われず、「じゃあ来れば」みたいな感じで、山本理顕設計工場に入所できることになったのです。

最初に「放り込まれた」のは、埼玉県立大学の案件。実施設計すべてを手がける、山本理顕設計工場にとっても大きなプロジェクトで、迫は、入所初っぱなから徹夜続きで仕事をしたが、「それでも楽しくてしょうがなかった」。新人でも力があれば、どんどん仕事を任せる〝山本理顕流〞のもと、迫はさらに鍛えられていった。

もう必死で仕事をしているさなか、新しいコンペの話が来たんです。広島市西消防署です。ほかに錚々たる建築家が招かれているなか、山本さんは、大学院出たての僕にコンペのプロジェクトリーダーをやらせた。通常、考えられないことですが、山本さんは「経験じゃない。いかに責任を持って臨むか、その気持ちで判断する」という方。僕にとっては大変なチャンスだし、事務所の看板に泥を塗るわけにはいかない。とにかく全力で当たろうと。ちなみに、山本さんには一切の妥協がなく、打ち合わせをしていても変更は日常茶飯事。僕はいつでも仕事ができるよう机の下で寝ていました。

結果、運良くコンペに勝つことができたんですけど、そこからがまた大変。広島に詰めてから、現場事務所でどれほどケンカしたか。ゼネコントップを相手にやったり、親くらいの年の施工会社の人とも。会話ひとつで、簡単に数十万、数百万円のプラスマイナスが出るような世界での攻防です。でも若造とはいえ、事務所の作品として責任を担っているのだから、引くわけにはいかない。言い訳もできない。建築って、お披露目をする時には華やかだけれど、何年にも及ぶ小さな積み重ねがあってこそ完成する。地道にやること、そして、すべての場面において最善の効果を生む交渉や判断が必要であることを学びました。今、僕がうちのスタッフに、いつも言っていることです。

人生最大のチャンスをくれた国、中国との出合い。そして格闘

人生最大のチャンスをくれた国、中国との出合い。そして格闘

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2000年、迫は北京市で70万㎡という巨大プロジェクトのコンペを担当することになった。それが、複合施設の「建外SOHO」。中国との初めての出合いであり、のちの人生を大きく変える端緒となった仕事である。そして04年、迫は「最高のトレーニングの場」となった山本理顕設計工場を辞し独立、その歩を進めていく。

例によって、山本さんが「迫、お前やれ」と(笑)。当時、僕は30歳でした。もちろん、山本さんあっての話ですが、建外SOHOは事務所としても海外初のプロジェクトで、しかもケタ外れのスケール。全身全霊で臨んだ結果、コンペに勝ちましたが、一方でそれは、大変なことの始まりでもありました。以降の1年間は、プランの修正続き。許可が下りるまでに、十数回マスタープランを変更したでしょうか。そして、感覚の違い。例えば、中国人はすぐ「没問題(問題ない)」という言葉を使うのですが、実際にはことごとく問題がある(笑)。この感覚を身につけるまで苦労したし、何かにつけ喧々諤々。それはもうシビアな現場でしたが、でも、それを超えるやりがいがあったと、はっきり言えますね。

ずっと、欧米への憧れはあったのです。建外SOHOの3期工事が終わったら、それを区切りにニューヨークに行って修業しようと考え、山本さんにも話をしていました。そうしたら、「力は十分についているから、もう建築家のもとで働く必要はないんじゃないか。研究機関がいい」と言われて。それで、当時の建築において世界の最先端を走っていたコロンビア大学への留学を希望したわけです。ここで客員研究員の立場を得るのは非常に難しいのですが、山本さんを始め、名だたる建築家の方々が支援してくださり、僕は導かれるように希望を叶えたのです。

山本さんの事務所を辞めて、コロンビア大学に行くまでの半年間は充電期間にして……と思っていた矢先、一本の電話が。中国人の建築評論家からのもので、「地方都市の交通局のオフィスビルをつくらないか」という。それが「金華キューブチューブ」です。耳を疑いました。こんな外国人の若造に、しかも公共建築でしょ、ありえない話ですよ。まだ中国が、都市開発の黎明期にあったから、巡ってきた大チャンスでした。それで必要に迫られるかたちで、北京にいきなり自分の事務所を構えることになったんです。

むろん、長年の夢だったコロンビア大学への留学をあきらめたわけではない。1年間は、中国とアメリカを2週間ごとに往復する日々。「かなり痩せた」というほどハードだったが、迫は仕事と研究を両立させた。「SAKO建築設計工社」を旗揚げしてからの10年間、それは、中国の大きなうねりの時代でもあった。経済成長著しい同地で、迫は心身を投じ、数々のプロジェクトに全精力を傾けてきた。

例えば、金華キューブチューブは非常にシンプルなかたち。建外SOHOの時の仕事経験が生きていて、中国では、どうすればコントロールの効くつくり方ができるか、それがわかっていたので、平面、立面などすべてに550㎜角のモジュールを採用したんです。それを基準にし、「はみ出さないように」という共通言語のもとにつくった。仕上がりは、なかなかいいランドマークになったと思っています。

そして、僕が提唱している「チャイニーズブランド・アーキテクチャー」の一つの集大成となったのが「抗州ロマンチシズム2」。中国の施工技術はやはり日本より劣るから、逆転の発想で、人件費が抑えられている中国だからこそ可能な、膨大な量の手仕事を取り入れたのです。この建築物のりんごのネットのような白い網は、すべて手作業だからこそ完成した。つまり、現地で何が得意かを見極めることが大切なのです。そして白い網には、ヨットの船体に使われる素材、FRPを使用。ヨット部時代に触れていた耐久性の高い素材に気づき、生かすことができた。結局、今までに見たり聞いたり、経験してきたものを咀嚼し、いかに自分の方向性をつくり出せるか。それがクリエイティブだと思うんですよ。

中国で仕事をしていると、設計変更や施工精度の低さの問題、お金の取りっぱぐれなんてしょっちゅう。ビジネスの視点で考えたら大変です。それでも面白いのは、日本では経験できないような仕事ができるから。今、江蘇省鎮江市で100万人の都市計画を進めていますが、面積は実に220㎢。山手線内側の3・5倍の面積ですよ。日中の産学官の力を結集したプロジェクトで、こんな川上からかかわれる仕事もある。20年、30年というプロジェクトになるでしょうが、僕は日中間の架け橋になれればと思っているんです。

未来のために、「建築家ができること」を模索し、走り続ける

未来のために、「建築家ができること」を模索し、走り続ける

未来のために、「建築家ができること」を模索し、走り続ける

宮城県名取市において進めている震災復興プロジェクト「東北スカイビレッジ」構想、そして、四川大地震の被災地に学校を寄贈するプロジェクト。いずれも、迫が全力をかけて臨んでいるものだ。建築の力は何か、建築家が持てる職能を生かしてできることは何か。迫はずっとそれを追い求めている。

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2008年5月に発生した四川大地震。すぐに現地に飛び、建築家の自分にできることを真剣に考えた

四川大地震が起きた時、2万人の子供たちが倒壊した建物の下敷きになって死んだのです。ずさんな手抜き工事が被害を大きくしたとされるなか、外国人であっても建築家として目を逸らすわけにはいかない。耐震性の高い学校を寄贈するプロジェクトを立ち上げ、日本から、本当にたくさんの寄付金援助をいただいた。ただ、困難なことも多々あります。こういう純粋なプロジェクトにすら利権を求めてくる中国の役人、度重なる敷地変更など、座礁しては少し進むという、まさに牛歩の歩み。でも、今また稼働のメドが立ちつつあるので、僕は決してあきらめないし、いずれはそこを日中交流の拠点にしたいと考えています。建築が持つ力って、やっぱり場所なんですよ。一過性のものでなく、立ち続ける拠点があることで何かが変わっていく。わずかでも貢献できれば、そう思っています。

そして、3・11が起きた。傷ついた母国の映像を見るにつけ、いても立ってもいられなくなった。それから意識的に日本に戻るようにし、立ち上げたのが東北スカイビレッジ構想です。東北の沿岸部に高さ20mの人工基盤を築いて街をつくるという構想の背景には、国が出した基本方針である高台移転に対する強い違和感があります。もちろん、高台に移転することは人命や財産を守るのに重要ですが、被災地のなかには、それが容易ではない平野部があるわけです。それに、住む所だけが再生しても、働く場所や産業が再生されなければ持続可能性がない。

これらのプロジェクトは、建築家が「この案いいでしょう」と無邪気に絵を描いているだけでは決して実現しません。僕は、資金調達のために企業や関係省庁にだって何度も足を運びますし、地元の賛成、反対意見の一つ一つに耳を傾け、とにかく愚直にあたる。自分の職能を最大限に生かすこと、それが社会に対する貢献なのですから。

迫は建築家という枠を超えて、最近では企業のブランディング、事業の総合プロデュースも担っている。例えばITベンチャーと組み、店舗設計に始まりユニフォームをどうするか、CMはどうするかなどといった具合だ。いったい、どこにそんな時間があるのだろうかと思うほどのバイタリティだ。

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フリービットグループが立ち上げた、スマートフォンキャリアの新ブランド「freebit mobile」。迫氏は、端末や店舗のデザインを含めた“ユーザー体験部分”をすべて担当するトータルプロデューサーに就任

社会と建築をきちんとつなげていく、そして次代のために、つまり未来のために仕事をしていくのが建築家の役割だと、最近すごく感じるんですよ。だから、閉ざされた建築の世界だけでデザインを競うのではなく、もっと職能を生かしていろんな場面で社会とつながっていけたらいいなぁって。

古くからの定型でいえば、分譲マンションや商業施設のような仕事は、どこか「建築家の流儀に合わない」といった風潮がありますよね。社会のなかで、自分たちで〝棲み分け〞をしちゃっている。でも、都市の空間をつくっているのは大量のマンションだし、多くの人々は休日を商業施設で過ごす。街の景観を左右するそこに、まだまだ僕らの職能はかかわれていません。国力が落ちているとはいえ、これだけの経済力のある国なのに。世界に誇れる建築家だって、たくさんいるのに。資源としてもったいない。違う国を行き来してきた僕の率直な思いです。そんなアンバランスさを調整して、建築と都市、そして人々と真正面から向き合っていくような建築家が増えれば「未来はつくれる」。そう信じています。

PROFILE

迫 慶一郎

迫 慶一郎

1970年7月16日 福岡県福岡市生まれ
1996年3月   東京工業大学大学院
理工学研究科建築学専攻修了
1996年 4月   山本理顕設計工場入所
2004年2月   SAKO建築設計工社設立
2004年9月   米国コロンビア大学客員研究員、
文化庁派遣芸術家在外研修員
(~2005年)

主な受賞歴

<2013年>
蔵前ベンチャー賞
<2012年>
GOOD DESIGN IS GOOD BUSINESS
China Awards 2012(中国)
<2010年>
2009-2010年度国際設計芸術成就賞(中国)
<2009年>
Euro Shop Retail Design Award 2009
One of Three Best Stores Worldwide
<2008年>
グッドデザイン賞
現代装飾国際メディアプライズ2007(中国)
ベストデザイナー賞
ほか、JCDデザインアワード(2004年より11年連続)
など多数

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