アーキテクト・エージェンシーがお送りする建築最先端マガジン

Architect's magazine

建築家とは、社会に対して利益の還元を総括的に行う職業である。社会を変えていくこともできるのだから、つくづく面白い職能だと思う

建築家とは、社会に対して利益の還元を総括的に行う職業である。社会を変えていくこともできるのだから、つくづく面白い職能だと思う

山下保博

時に、山下保博は「捉えどころのない建築家」と評される。彼がつくる建築は、素材や構造、構法を常に変化させ、形態のバリエーションも多様だからだ。加えて、震災復興支援、地域経済およびコミュニティの再生・活性化に奔走し、環境に負荷のかからない独自の素材開発にも尽力。新しい〝モノ〞と〝コト〞を同時進行的に表現し、世に問うている。様々な方向に手を広げ、足を伸ばし、冒険に挑み続ける山下の存在は、従前の建築家像とは大きく一線を画す。胸にあるのは、「建築家とは、社会に対して利益の還元を総括的に行う職業である」という、自ら打ち立てた道標だ。

建築家とは、社会に対して利益の還元を総括的に行う職業である。社会を変えていくこともできるのだから、つくづく面白い職能だと思う

文武両道に長けた少年。厳しさと愛情を受け、たくましく育つ

降り注ぐ太陽。透きとおるような海。豊かで奥深い自然をたたえる奄美大島(鹿児島県)、ここが山下の生まれ故郷である。「漁師になりたい」と思うほど海に馴染み、動植物に触れ、文字どおり〝懐のような自然〞に育まれた。

代々、集落の顔役を務めてきた家系で、小さいながら田畑や山、船を持つ環境にありました。親父は農業も漁業もやれる技量を持ち、公務員でもあったんですど、戦争体験があるから、とにかく厳格な人。僕ら子供たちが学校を休むなど、あり得ない話で、風邪をひこうが何しようが、絶対に行けと。だから皆勤賞ですよ、僕。「男たる者、グチを言うな。泣き言を言うな」が教育方針。厳しかったけれど、おかげで根性がついたというか、僕はどんなことにも勤勉に臨めるようになった。

一番感謝しているのは、子供の将来、自由を最大限尊重してくれたこと。「君たちが望む教育は最後まで受けさせる。山や畑を売ってでも学校は行かせるから」。親父は、いつもそう言っていました。僕は5人きょうだいですが、本土と比べて経済的に豊かではない奄美で、子供5人育てるのって大変なんですよ。それを両親は、全員を不自由なく、望む職業に就くまで面倒見てくれた。自分が親になると、その価値、ありがたさがよくわかるものです。

山下保博4

5人きょうだいの二男。公務員だった父はとても厳しかったが、子供たち全員にそれぞれが望む教育と愛情を注いでくれた

子供の頃から勉強もスポーツもできたほうで、高校は奄美で一番の大島高校に通っていました。もともとは文系で、絵を描くのも好きだったから、将来は芸術の道もあるかと。でもある時、同級生が描いた油絵を見た瞬間、「俺に絵描きの道はないな」と悟った。それまで僕は、写実的な絵で賞をもらったりしていたけれど、彼の抽象画はまさにアート。だって、山が緑色じゃなく赤だったんだから(笑)。

別の職業を考えるにしても、当時の奄美大島には、いかんせん情報がなかった。医者か教師になるか、あるいは公務員か。「あとは何がある?という感じで、建築を設計する仕事など知らなかった」。ただ、建築現場で、図面を手に職人たちと〝建物をつくる人〞を見ていて、自分にもできるように思えた。絵を描くことや体を動かすのは得意だ。この世界に興味を持った山下は、大学受験の際、建築だけに絞ったという。

それと「日本で一番の地へ」という強い思いがあり、進学は東京だと決めていました。狙った公立大学には合格できず、一浪して入学したのが芝浦工業大学。正直、滑り止めだったのですが、僕がいた頃の教授陣が最高の陣容だった。相田武文、三宅理一、藤井博巳先生たちという、スターがそろっていたのです。大学のブランドより、在学中に旬の先生がどれだけいるかが重要だと、今となればわかる。僕は偶然だったけれど、先生方との巡り合いがあったから今日があると思っています。

山下保博5

大学は芝浦工業大学へ進学。
成人式で奄美大島に帰省した際の一枚。母と祖母と

もっとも、それを実感したのは大学4年になってからで、それまでは生活のためにバイト三昧でした。引っ越し会社、清掃会社、焼鳥屋さん、設計事務所も……まぁあれこれと。僕、そういうわけで勤勉でしょ、何でも精一杯やるので、多くのバイト先から「うちに就職しろよ」と言われたものです。これは、ちょっと自慢できる(笑)。

4年となり、さすがに「真面目に建築をやらねば」と。ちゃんと学校に行き始め、後半ギリギリで入ったのが三宅先生の研究室でした。当時、僕は先生のことをよく知らなかったのですが、「ものをつくるだけではなく、社会に広く影響を与え、さらには社会を変えていく存在として建築家がある」という先生の主張を知った時、ものすごく心に響いたのです。「この先生のもとで、もっと学びたい」と思ったことで大学院に進み、それからは猛勉強。もとより僕は、「年間100冊以上の本を読み、映画は100本以上観る」ことを自分に課し、様々な作品には触れてきましたが、それを建築系のものに変えてね。建築に関係する歴史や哲学、心理学なども含めて多読しました。〝旬の先生〞たちのもと、一気に学びを深めた院生時代は、僕の建築家としての本質を醸成した時代でもあります。

懸命に働き、体得した経験や学びを源泉に。31歳で事務所を開設

懸命に働き、体得した経験や学びを源泉に。31歳で事務所を開設

懸命に働き、体得した経験や学びを源泉に。31歳で事務所を開設

三宅教授に勧められ、山下は、修士課程修了をはさんで「齋藤裕建築研究所」にバイトとして入り、スタッフ同然に働いている。ことさら仕事に厳しいスペシャリストのもとで鍛えられ、勉強と実地、山下の生活は文字どおり〝建築漬け〞だった。その後、2つの事務所を渡るが、一途な山下は、すべての経験と学びを血肉へと変えていく。

齋藤さんは何事にも厳しく、何度怒鳴られたことか。院生には書けないような詳細図面を求められるし、「1㎜の間に10本線を引け」なんて言う。僕は毎日、早朝から事務所に出て必死に練習したものです。おかげで〝生きた線〞を引けるようになった。また、齋藤さんほど素材を見られる人っていなくて、木一本に対しても「この木はどこの山のもので、どんな素性で、どう使うのがいいか」を考え抜く。本当に勉強させてもらいました。ただ、よほど厳しかったのか……2年も経つと、仲のいい連中から「お前、ギスギスした顔になったなぁ」と言われちゃって。自分ではわかっていなかったけど、かなり追い詰められていたんでしょうね。

次に入ったのが土地活用のノウハウを提供するパノムです。商業系の事務所なので、ガラッと世界が変わった。例えば、10億円の土地を持っている人がいたら、遊休させるのはもったいないからマンションをつくりませんか、オフィスビルを建てませんかと提案し、仕事につなげていく。僕がいた3年間はバブル経済真っ只中でしたから、ある程度の規模を経験できたし、何より建築にまつわるお金の流れを知ることができた。〝作品〞としての建築だけでなく、経済行為のなかにある建築。それを教えてもらったのです。

とはいえ、2つの事務所の振れ幅があまりに大きく、「僕が本当にやりたいことは何だ?」を考え始めた頃、近藤春司さんが声をかけてくださったのです。「チーフ格で来ないか」って。事務所が勢いづいたタイミングで、世もバブル。スケールの大きな仕事に携わり、あの頃、僕が持っていた案件の予算を合計すると400億円ですよ。今考えると、すげえなぁって(笑)。しかしながら、バブルが弾けて、どれも〝建たず〞ですよ。悲しいかな、仕事は現実化しなかったんですが、近藤さんのもとでメーンソリー構造を核に学んだ建築のつくり方、あり方は、間違いなく僕の基盤になっています。

大好きな海を冠し、「山下海建築研究所」(1995年にアトリエ・天工人に改称)を設立したのが91年。31歳となり、「教わったことを自分で実践していく」ために独立した。とはいえ、営業の仕方もわからず「日がな電話を眺める日々」。すでに家族を抱えていた山下は、設計の派遣会社に登録し、施工図書きをすることで生計を立てていた。

派遣先として行くようになったのが竹中工務店です。やるからには一生懸命やりたいから、猛烈に施工図を書き、猛烈に稼いだ。竹中が求めていることを理解し、手早く仕事を進め、僕自身もディテールを頭にたたき込みながら勉強していったのです。1年ほどやって一区切りついたんですけど、覚えめでたく、今度は竹中の設計部から直に「来てくれ」と。それからは設計者として携わらせてもらい、ホテルやチャペル、大きな工場なんかも手がけてきました。出来上がったあとも竣工検査に立ち合うとか、社員同然にしていただいた。その恩は今も忘れていません。

並行して、知り合いからポツポツと仕事の声がかかるようになり、最初の作品となったのが「松島の望楼」です。宮城県松島町にある高台に建つ住宅で、3年がかりの設計・施工でした。実はこの一発目、悲しい話がありまして。完成した住宅を、ご主人はとても喜んでくれたのですが、奥さんはイメージが違ったようで、「私はハウスメーカーがつくるような家がよかった」と。ショックでしたねぇ。しかも、その旨を記した手紙までもらったものだから、我ながら悔しかった。もちろん図面や模型は見せていましたが、人に正しくものを伝えるのがいかに難しいか……。自分合点ではダメで、相手が何を欲しがっているのか、何を提供すれば喜ばれるのかを考え抜くことの大切さを、心底教えられた仕事になりました。

独創的な作品と活動が認められ、ブレイク。そして世界へ

独創的な作品と活動が認められ、ブレイク。そして世界へ

独創的な作品と活動が認められ、ブレイク。そして世界へ

山下が大切にし、現在の広く深い活動を支えているのは、枠を超えたコラボレーションである。その起点となったのが、40歳の時に発表した「鉄仮面の家」。構造家・池田昌弘氏、施工の松岡茂樹氏とのコラボで生まれた「今見ても、いい家」だ。ものづくりに必要なのは、フラットな関係における協働であり、すべての力が合することでこそ満ちたものができる――そのことに、山下は早くから気づいていた。

 池田さんの本を読んだら、とても共感するところがあって、「一緒にやりましょう」とアプローチしたんです。そもそも僕は、建築は一人ではできないという思いが強い。最後は、工務店や職人さんがいなければ実現しないわけだし。ただ単純なコラボではなく、池田さんや松岡さんと、初めの段階から組み立てていったのが「鉄仮面の家」です。すったもんだしたけれど、ある時ピタッとくる瞬間を迎え、それから一気に加速していい仕事ができたんです。特徴的な構造に加え、合理性を追求したことで、鉄骨建築ながらコストもずいぶん抑えることができた。人の知恵と力の融合って、本当にすごいですよ。

施工の松岡さんと出会ったのは、この仕事の前、「Project1000」を立ち上げた時。阪神淡路大震災の復興を契機に、価格、品質ともに適正な住宅を全国に広く提供しようと始めた活動です。名のとおり、1000万円台での家づくり。今でこそ、うちだけで160棟の実績がありますが、当初は工務店からいやがられまして。適正価格を追求するには、工務店の慣習的などんぶり勘定の仕組みを変えなければならなかったから。でも、周囲は皆、「懐をオープンにする工務店なんていないよ」って。そんななか、「オープンにするのが常識でしょう」と言ってくれたのが松岡さん。この人だ!と。

以降も、僕は本当にパートナーに恵まれてきました。人が大好きだし、「この人と仕事をすると面白いことになる」と、ワクワクするのが最高に楽しい。今、産官学問わず様々な分野の人や団体とコラボレーションしていますが、いつも「山下ならいいよ」と言ってくださる。これは僕個人ではなく、天工人の財産だと思っています。

山下の名が広く知られるようになったのは、42歳の時だ。多様な建築をつくり続ける一方で、「Project1000」のような社会的活動も実践する、従前とは〝違う〞建築家、事務所として、『TOTO通信』が取り上げたことが契機となった。追ってほかの建築メディアからも注目され、プロジェクトは一気に増加。ブレイクしたのである。

『TOTO通信』では、コラボを重んじる仕事スタイルや、震災復興活動など「アトリエ・天工人の試み」として取り上げてもらったんです。おかげで、「こいつらは何者?」「ちょっと違う動きをしているなぁ」と、業界で注目されるようになった。その前にも、建築家の集まりには出ていたのですが、以降、有名な建築家からも声をかけられるようになり、別世界になりましたから(笑)。プロジェクトも、年間で常時15件ほど抱えるようになった。メディアの力は、やっぱり影響力があるというか、「こういうことが起きるんだ」と驚いたものです。

その後、僕を世界に連れて行ってくれたのが「セル・ブリック」。近藤さんの事務所時代に学んだメーンソリー構造でもって、鉄のボックスを千鳥状に積んだ住宅です。東京という場で、「ものを積む」というヨーロッパ的な手法を用い、本家ヨーロッパと勝負したいと思ってつくったのです。イギリスの「ar+d award2004」で国際新人賞を取ったのが、この作品。人に勧められての出品でしたが、日本人としては初のグランプリで、嬉しかったですねぇ。そこから「釜山エコセンター」など、海外の仕事にもつながっていったのです。この頃から、僕のステージは明らかに上がったと思いますね。

社会に利益の還元を。多彩な活動で今日も走り続ける

社会に利益の還元を。多彩な活動で今日も走り続ける

社会に利益の還元を。多彩な活動で今日も走り続ける

産学との共同開発で特許を取得した「ガラスブロックシリーズ」、土と酸化マグネシウムを融合させた「アース・ブリックス」など、山下は常に「素材から構造へ」の冒険に挑んできた。最近のものとしては、シラス(火砕流堆積物の総称)を混合した新しいコンクリート住宅「R・トルソ・C」がある。山下の集大成ともいうべき仕事だ。

シラスは、左官壁や瓦には利用されているものの、建築の構造体としては実績がほとんどありません。建築資材としての認定を受けるために、1年ほど実証実験を重ね、ようやくこの1棟に限り国土交通大臣の認定を受けたんです。高層ビル建築でやるようなことを、個人住宅でやったわけ(笑)。

これは化学の世界です。セメントと水は水和反応で固まってコンクリートになるわけですが、そこにシラスが入ると、ポゾラン反応が起きて、さらに強度が増す。でも、構造体としての実績がないでしょ。それでも面白がってくれて、「先端的な住宅として社会への提案になるのなら」と、クライアントが一緒につくってくれたからこそ、一つのスペシャルが実現したのです。

シラスの埋蔵量が膨大なのは、鹿児島県です。僕は今、シラスを産業化しようと県に働きかけているのですが、それは、地域おこしを考えているから。地域特有の資源を生かし、お金が生み出されれば人が集まり、活性化されるでしょう。シラスが埋まる敷地って山側ですから、100㎡、だいたい10万円で売買されているんですね。一方、砂の価格は1㎥あたり3000円ほど。仮に、この価格でシラスを売るとした場合、深さ60mを掛け合わせると1800万円になる。土地の表面価格に比して、その地下には「金が埋まっている」ということです。まぁ、既得権益者からの反発はあるのですが、僕は技術をオープンにして、故郷である鹿児島県、ひいては社会に利益還元したいと考えているのです。この仕事は、20年間やってきたなか、素材から構造を開発する取り組みにおいて先端だし、僕らの集大成になるだろうと思います。

山下の名刺には、たくさんの法人名が記されている。設計事務所を母体に、より広く社会に貢献するためのプラットフォームを、成すべきことに合わせて柔軟に組織する〝山下流スタイル〞。その活動の広がりは、ますます加速しているように見える。

 まずは建築家であり、九州大学の客員教授であると。組織でいえば、事務所の地方拠点があり、ほかに「地域素材利活用協会」やら、東北地方の復興支援を中心に活動している「N・C・S」やら……自分でも、おかしいんじゃないかと思う(笑)。でも、やりたいことがどんどん出てくるので、これからもこんな調子でしょうね。

昨年、奄美大島のアドバイザーにと声がかかりまして。それを機につくったのが「奄美設計集団」で、力を入れている活動の一つです。現地にいる若い設計者や、奄美出身者にも声をかけ、奄美群島全体のデザインのレベルアップをしていくことが目的です。僕は今、道路の設計をしているんですよ。「えっ?」と思われるかもしれないけど、アスファルトも舗道も、すべて奄美の素材を使ったものができるはずで、それを専門業者さんと開発中。また……頼まれてもいないのに(笑)。でも、道路って何十年も残るから、訪れた人にも「面白いね。奄美っぽいね」って言われたいじゃないですか。デザインされていると、そこに人が集まり、まちが活性化される。そのきっかけづくりを、僕はしたいのです。

山下保博6

第86回選抜高校野球大会に、21世紀枠で選ばれた母校・大島高校の応援グッズを持つ山下氏。
故郷である奄美大島及び九州の発展に、これからも貢献し続けていく

建築家って、つくづく面白い職能だと思う。かつて大学で教えを受けた、「社会に広く影響を与え、さらには社会を変えていく存在として建築家がある」という、三宅先生の言葉どおりです。最近は、こういう感覚を持つ若手の建築家が増えてきていて、素晴らしいですよ。ただ大事なことは、「実践してナンボ」。モノをつくり、コトを動かすことを実践していかなくてはならない。僕は、たいてい言い出しっぺだから、世に問い、認めてもらうために、ずっと実践してきたつもりです。

建築の大きな行為は、社会に利益還元をすること。だから僕は、若い建築家に、社会をデザインすることに極力かかわってほしい。そしてもう一つは、個人で仕事する時代はもう終わっているということ。大手ゼネコンが建築家を輩出し始めている時代です。組織力や資本に負けないで、いい建築をつくりたいなら、新しいチームを組む。人の知恵と力が融合するチームの威力は、誰より、経験してきた僕が知っているから。そんな仲間が増えていくと……僕はもっともっと走れます(笑)。

PROFILE

山下保博

山下保博

 

1960年4月26日 鹿児島県奄美市生まれ
1986年3月 芝浦工業大学大学院工学研究科 建設工学修士課程修了
(その後、株式会社パノム、近藤春司建築事務所に勤務~1991年)
1991年7月 山下海建築研究所設
1995年7月 一級建築士事務所アトリエ・天工人に改称
1997年1月 「Project1000」活動開始(2004年に法人化、2010年に株式会社化)
2004年2月 有限会社N・C・S設立(2008年にNPO法人化)
 2013年7月 株式会社天工人west設立
              9月 一般社団法人地域素材利活用協会設立
2014年11月

2015年3月

株式会社天工人south設立

株式会社奄美設計集団設立 一般社団法人 シラス製造工業組合設立

主な受賞

2004年  「セル・ブリック」(ar+d award 2004国際新人賞/イギリス)
2008年  「チカニウマルコウブツ」(INTERNATIONAL ARCHITECTUREAWARD 2008/アメリカ)
2009年  「エチオピア・ミレニウム・パビリオン」(第16回空間デザインコンペティション金賞)
2013年  「バウンダリー・ハウス」「備蓄倉庫」「釜石市公民館及び復興公営住宅」(LEAF Awardsの3部門で最優秀賞受賞/イギリス)
2014年  「バウンダリー・ハウス」(日本建築家協会賞)
ほか受賞多数

アーキテクツマガジンは、建築設計業界で働くみなさまの
キャリアアップをサポートするアーキテクト・エージェンシーが運営しています。

  • アーキテクトエージェンシー

ページトップへ