アーキテクト・エージェンシーがお送りする建築最先端マガジン

Architect's magazine

建築家の多様な職能が広く認識されるようになったこの時代は、本当に面白いと思う。活躍できる場がたくさんあるのだから

建築家の多様な職能が広く認識されるようになったこの時代は、本当に面白いと思う。活躍できる場がたくさんあるのだから

木下庸子

学生時代の大半をアメリカで過ごした木下庸子は、建築もかの地で学んだ。
入り口としては消去法的に選んだ道だったが、その面白さに魅了された彼女にとって、建築との出合いは「人生最高のもの」となった。住宅をはじめ、公共施設や歴史的建築物など、手がけた設計作品には受賞作が多く、プロフェッサー・アーキテクトとしての活動も長い。なかでも、木下が主題とするのは「住まい」だ。背景には、20代半ばになるまで頻繁に住まいを移ったという原体験がある。「住宅設計には様々な解が存在する」ことをリアルに知るからこそ、常に、そして真摯にその〝解〞を求め続けてきた。それが、時代性や型にとらわれない木下のオリジナリティを生み出している。

消極的な選択ながら、アメリカの大学で学び始めた建築に〝はまる〞

銀行員だった父親の転勤に伴い、木下一家は2度、ニューヨークに渡った。最初は1963年、東京オリンピックの前年で、木下が小学校1年の時。2度目は中学2年の時である。語学はもちろんのこと、早くに〝外〞に出た経験はのちの財産となるが、その都度、環境変化に馴染むのはやはり大変だ。

ニューヨークに移り住んだ当初は、東京の日常生活とのあまりの違いに戸惑い、学校の授業にしてもチンプンカンプンでしたからね、けっこう精神的なストレスはありました。まぁ馴染みの早い子供のことですから、半年も経てば日常会話に問題はなくなったけれど、それでも英語で文章を書くような授業には長らく苦しめられたのを覚えています。その後も含めて、常にネイティブと戦ってきた感じですね。

4年生半ばで一度帰国したものの、4年後にまた渡米することになり、その時は「イヤだ」とさんざん言ったんですよ。やっと日本の学校に慣れて勉強の遅れを取り戻し、友達もできていた時期でしたから。でも、さすがに「一人残せないでしょう」と連れて行かれ、結局私は、大学院を修了するまでアメリカで過ごすことになるのです。

建築というものを初めて意識したのは、一時帰国をしていた中学1年の時。家を建てるという話が急に持ち上がりましてね、私も親と一緒にプレハブメーカーの住宅展示場を見て回ったんです。目にしたウォークインクローゼットや子供部屋がとても素敵に思えて、「あんな家がいい」と私も要望を出したんですけど、予算の問題もあり、完成した住宅はイメージしていたものとはほど遠かった。今にして思えば、この時のフラストレーションが建築への第一歩になったのかもしれません。もっとも当時は、建築家は〝男性の職業〞という認識で、よもや自分がなれるとは思っておらず、「建築家と結婚したいな」と憧れる程度でしたけど(笑)。

木下はニューヨーク郊外にあるいい学区の公立高校に通っていたが、9割方がユダヤ系だったこともあり、環境にはあまり馴染めなかったそうだ。「卒業後は日本に帰りたい」――しかし当時の日本には、日本の中学を卒業していないアメリカの高卒者を受け入れる大学は皆無に等しく、そもそも受験資格が与えられなかったのである。

今のような帰国子女枠がなかったから、夜学に通って中学の卒業証書を取り直す必要があると知った時はガックリきちゃって。そんな私を見て、高校のカウンセラーが助言をしてくれたのです。「西部に行って気分転換してみたら?」と。それがスタンフォード大学。アメリカの大学には無頓着だったけれど、カウンセラーの強い推薦もあって無事に入学することができました。当初は「まずは1年」くらいの気持ちだったのですが、行ってみたらこれが楽しくて。皆オープンで人懐っこく、寮での新生活も私には合っていました。

3年生で専攻を決める際には迷ったんですよ。文科系や経済、心理学のコースなどを取ったりしていたものの、最後はやはり英語が壁になる。スタンフォードに来ているトップクラスの人たちには到底かないません。行き着いた先は、語学だけでなくビジュアルも合わせて勝負できる建築学科。つまりは消去法的に選んだ道だったのです。

でもわからないもので、これもやり始めたら本当に面白くて、完全にはまりました。もともと手先が器用な私は、洋服なども自分でつくっていましたし、「ないものをつくる」細工やアイデアを考えることが大好きなんです。模型づくりでは時間を忘れて没頭し、気づけば徹夜ということもザラでした。製図の授業や設計演習も週3回あり、先生とエスキスを重ねながら課題をブラッシュアップする日々は、「四六時中設計のことを考える」貴重なトレーニングになりました。加えて、日本と違ってスペースが豊かですから、自分専用の製図台や模型をつくる机なども与えられ、環境としては最高。建築を学ぶうえではとても恵まれたと思います。

【次のページ】
軸足を定めようと帰国。創作意欲にかられ、早々に独立を果たす

ページ: 1 2 3 4

PROFILE

木下庸子

木下庸子

1956年 2月7日 東京都生まれ
1977年 6月 スタンフォード大学工学部建築学科卒業
1980年 6月 ハーバード大学デザイン学部大学院修了
1981年 4月 内井昭蔵建築設計事務所入所(~1984年)
1987年10月 設計組織ADH設立
2005年 4月 UR都市機構 都市デザインチーム チームリーダー(~2007年)
2007年 4月 工学院大学建築学部教授

『孤の集住体』(住まいの図書館出版局/共著)、
『集合住宅をユニットから考える』(新建築社/共著)、
『いえ 団地 まち』(住まいの図書館出版局/共著)ほか

人気のある記事

アーキテクツマガジンは、建築設計業界で働くみなさまの
キャリアアップをサポートするアーキテクト・エージェンシーが運営しています。

  • アーキテクトエージェンシー

ページトップへ