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建築家の多様な職能が広く認識されるようになったこの時代は、本当に面白いと思う。活躍できる場がたくさんあるのだから

建築家の多様な職能が広く認識されるようになったこの時代は、本当に面白いと思う。活躍できる場がたくさんあるのだから

木下庸子

学生時代の大半をアメリカで過ごした木下庸子は、建築もかの地で学んだ。
入り口としては消去法的に選んだ道だったが、その面白さに魅了された彼女にとって、建築との出合いは「人生最高のもの」となった。住宅をはじめ、公共施設や歴史的建築物など、手がけた設計作品には受賞作が多く、プロフェッサー・アーキテクトとしての活動も長い。なかでも、木下が主題とするのは「住まい」だ。背景には、20代半ばになるまで頻繁に住まいを移ったという原体験がある。「住宅設計には様々な解が存在する」ことをリアルに知るからこそ、常に、そして真摯にその〝解〞を求め続けてきた。それが、時代性や型にとらわれない木下のオリジナリティを生み出している。

軸足を定めようと帰国。創作意欲にかられ、早々に独立を果たす

大学在学中にはオーバーシーズプログラムに参加し、半年ほどイタリアに在住。教科書でしか知らなかった歴史的なルネサンス様式の建築物を訪ね歩き、「〝実物を見る〞ことの意義を知った」。木下は様々な財産を得ながら建築という分野に一層のめり込み、そして77年、ハーバード大学デザイン学部大学院へと歩を進める。

大学卒業を控えた頃は、実はスタンフォードの建築学科が近く廃科になるという時期で、さて次はどうしようかと。家族はすでに日本に戻っていたので、帰国も選択肢にあったのですが、私を可愛がってくださった先生が「ハーバードに行って建築を学び続けなさい」と励ましてくれたのです。「絶対に推薦してあげるから」って。これもラッキーな話で、私は時々において本当にいい機会に恵まれてきました。

とはいえ、さすがに大学院はきつかったですねぇ。毎日どっぷり課題漬け。この頃は楽しいというより、必死にノルマをこなす感覚でした。一番のウエイトは設計にあったけれど、ビジュアルアーツ、構造、歴史などのレポートとか課題は大量で、常に締め切りに追われていた時期です。周りも必死で、「月謝を払っているのだからしっかりモノにしなきゃ」というムード。その目的意識の高さはすごかったですよ。

院を修了して帰国したのは24歳の時です。アメリカ生活は通算12年間となりましたが、私は常に〝外国人〞だったから、母国に戻って落ち着き、軸足を定めたいという思いがありました。ちなみに私は、生まれてから帰国するまでの24年間で、実に20回近くも住まいを移ったんですよ。また一方では、当時の日本人がいろんな国に出て行ったのと同じ感覚で、「知らない土地に行って働きたい」という欲求もあった。日本が外国でもあるような……何とも入り組んだ思いでしたね。

帰国後は、縁があった建築雑誌の編集長の紹介で「内井昭蔵建築設計事務所」に入所。折しも内井氏がレイノルズ賞を受賞し、その名が海外にも知られるようになった頃で、事務所側でも「英語が使えるスタッフ」を求めていたそうだ。日本での木下の道のりは、ここからスタートした。

結果的に在籍したのは3年半弱だったので、私がプロフェッショナルとして携わった作品はほとんどないんですよ。最後のほうで、一つ住宅があるくらい。時代的にも、女性が事務所に入ってすぐに設計や現場監理をやらせてもらえるような環境にはなく、アシスタントと内井さんの秘書的な役割が多かったですね。でも、チーム内での実施設計や連れて行ってもらった現場を通じて、たくさん勉強できたのは確かです。そして一層強くなった思いが「つくりたい! 私も担当したい!」です(笑)。この気持ちが、早い独立へのエネルギーになったのかもしれません。

設計組織ADH

本取材は、2018年11月、東京・千駄ヶ谷にある設計組織ADHのオフィスで行われた。ミーティングスペースでスタッフと。前列左は、事務所を共同主宰する渡辺真理氏

辞めてからは住宅とかクリニックとか、ぼちぼち声はかかったものの、やはり看板なしの一人は大変でした。私は日本の建築教育を受けていないから、必要だと割り切って学校に通い、一級建築士の資格を取ったのもこの頃です。実は途中、英語を生かせる建築関係の〝おいしい話〞がいっぱいきたんですよ。バブル景気で外国の建築家も日本で仕事をしていたから、交渉やコーディネイト業務の類が。正直、喉から手が出そうな時期もあったけれど、でもやっぱり建築をやりたくて、自分の事務所を続けるんだと決めていました。「設計組織ADH」を立ち上げたのは、そんな助走期間の後のこと。もとは、ライブハウス建築のプロジェクトのために結成したユニットで、メンバーとしては当時独立したばかりの妹島和世さん、牛田英作さん、そして私の公私にわたるパートナーである渡辺真理の4人。その際、クライアントから法人契約を求められたので株式会社にしたんです。だから「その目的のため」という意味を持つラテン語「ad hoc」が社名の由来。結局、くだんのライブハウスの仕事は立ち消えになってしまったのですが、会社としてはもう30年以上、思いの外長くなっちゃいました(笑)。

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住宅を核に独創的な仕事を重ね、今日の礎を築く

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PROFILE

木下庸子

木下庸子

1956年 2月7日 東京都生まれ
1977年 6月 スタンフォード大学工学部建築学科卒業
1980年 6月 ハーバード大学デザイン学部大学院修了
1981年 4月 内井昭蔵建築設計事務所入所(~1984年)
1987年10月 設計組織ADH設立
2005年 4月 UR都市機構 都市デザインチーム チームリーダー(~2007年)
2007年 4月 工学院大学建築学部教授

『孤の集住体』(住まいの図書館出版局/共著)、
『集合住宅をユニットから考える』(新建築社/共著)、
『いえ 団地 まち』(住まいの図書館出版局/共著)ほか

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