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建築は長期戦。社会とラリーを続けていくうちに信頼され、任され、本当に面白いものがつくれるようになる

建築は長期戦。社会とラリーを続けていくうちに信頼され、任され、本当に面白いものがつくれるようになる

隈研吾建築都市設計事務所 隈研吾

「那珂川町馬頭広重美術館」(栃木)、「根津美術館」(東京)、「竹屋」(中国)、「ブザンソン芸術文化センター」(フランス)などに加え、昨年、10年の歳月を要して蘇った東京の新しい歌舞伎座。隈研吾の代表作は、国内はもとより世界中のいたるところに存在する。80年代後半、切れ味鋭い建築批評で名を知らしめた隈は、以降、建築家として常に時代の先端を駆け抜けてきた。時に陥った迷いや挫折は肥やしに変え、今日に至った隈の流儀は〝負ける建築〞。自己主張の強い建築をよしとせず、環境に溶け込む造形をとことん追求する。その実現のため、土地が発する声に耳を傾け、クライアントの意向にも心を砕く。この〝受け身の姿勢〞こそが、隈の心髄なのである。

建築は長期戦。社会とラリーを続けていくうちに信頼され、任され、本当に面白いものがつくれるようになる

子供の頃から養われていた〝建築を見る目〞

動物好きで「獣医になりたかった」隈が、職業として建築家をはっきり意識したのは小学4年生の時だ。父親に連れられて見に行った国立代々木競技場、そして設計者である丹下健三氏が、テレビで建築を語る姿――「カッコいいなぁ」。建築家が特別な存在として光り輝いていた時代である。この時に芽生えた憧れが、隈の出発点となった。

バックグラウンドはあったんですよ。横浜市郊外にあった僕の生家は、戦前に建てられた木造家屋でね、友だちの家とはすごく違った。高度経済成長期で、周辺には新建材を使った住宅がどんどん完成していくなか、自分の家だけが古くてもの寂しい。だからというか、僕は子供の頃からいろんな家に遊びに行くのが好きでした。田園調布にある幼稚園に〝電車通園〞していた僕は、路線各駅に住む友だちの家を見て回るわけ。「どんな家に住んでいるのかな」って。「豪邸だけど品がないなー」とか(笑)、わりといじわるな目線だったけど、建築を見る目は養われていたんだと思います。

そこに加え、デザインとか建築が好きだった父親の影響があります。明治生まれの父親とは45歳違い。父権が強く、僕は普通の子供のように甘えることはできなかったけれど、父親は、新しい建築物ができるたび、あちこち連れて行ってくれたものです。上野公園の東京文化会館や、駒沢オリンピック公園の陸上競技場……60年代の典型的なコンクリート打ちっぱなし建築ですよ。いろんな建物を見るなか、強く惹かれたのが代々木競技場だったのです。丹下さんや黒川紀章さんが集中的にテレビに出ていた頃で、憧れましたねぇ。それからは、建築家以外の職業は考えられなくなりました。

進学したのは、人格教育に重きを置くミッションスクール、栄光学園。ほかの中学も受験したそうだが、豊かな自然環境が気に入った。長身を生かし、バスケットボール部ではセンターとして活躍するなど、中高一貫の6年間で、隈は心身共に十分な学びを得た。

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」で、いわゆる頭でっかちはダメ、人間は肉体が基本であるという考え方です。冬でも上半身裸で体操をするとか、当時はスパルタだとか言われていたけれど、勉強を強要されることはないし、校則もなく自由で、僕にとってはよかった。栄光学園での教えは、ある意味僕のベースになっています。

印象深いのは、高校生の時に、2泊3日で修道院に籠もって「黙想」を体験したこと。希望者だけが参加するイベントなのですが、「あれは大変だぞ」と噂になっていたから、興味本位でね。キリスト教の訓話を聞き、座禅のようなこともするんだけど、この間、人とはいっさい話しちゃいけないわけ。閉ざされた環境で本を読み、〝考えることだけ〞をするのって、なかなか得がたい時間です。自分なりに死生感にも向き合い、スピリチュアルな体験をすることができました。

僕は、バスケットでもアメリカの基地の高校チームとよく試合をしたし、学校の先生である神父さんたちも半数は外国人だったから、異文化と触れ合う機会が多かったのです。黙想も、一つの異文化でしょ。これらは、非常にいい財産になっている。今、海外に行って抵抗なく仕事ができるのは、この頃の経験が大きいと思うんですよ。

師や仕事場に恵まれ、建築家としての礎を築いた時代

師や仕事場に恵まれ、建築家としての礎を築いた時代

師や仕事場に恵まれ、建築家としての礎を築いた時代

「建築家になりたい」という志を胸に、73年、隈は東大工学部に入学。当然、志望は建築学科一本に絞っていたが、当時は難易度が高く、建築に進むのは一番大変な時期だった。何人も「学内浪人」が出るほどで、他学科への振り分けに対する恐怖感から、「受験勉強より、入学してからのほうが勉強した」。大学では建築構法を専門とする内田祥哉研究室に、そして大学院では集落研究で高名な原広司研究室に属し、隈はまた、学びを取り込んでいく。

かつて代々木のオリンピック会場を見た時は、近代的な建築に憧れた僕でしたが、すでに中学生の頃からは、それらに対する否定心が生まれていました。自分の家のボロさに対するコンプレックスは、時間とともに物が朽ちていく〝いい感覚〞に変わり、もとより僕は、文化人類学に興味があったので。第一人者である梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』が愛読書。サバンナの生活がカッコいいと思っていたから、対局にある近代的なもの、成り金的なものに対するアンチテーゼがあった。内田先生も原先生も、文化人類学的に民家、集落が持つ知恵や価値を研究する異色の教授です。だから僕は、二人の下で学ぶことにしたのです。

当時の原研究室は集落調査をしていて、「アフリカに行こう」とけしかけたのは僕。そう、サバンナですよ(笑)。スポンサー集めをし、外務省などに情報を取りに行きと、全部自分たちで組んだプロジェクトです。周囲からは「治安が悪くかなり危ない」と言われていたので、けっこう緊張して行ったんだけど、季節もよく、むしろ快適だった。集落で写真をパチパチ撮っているものだから、村人が通報して、警察官に体を調べられたりもしたけれど、それもいい経験。この2カ月間の旅は、都会っ子の僕に「どんな場所に放り出されても大丈夫」という、大きな自信をもたらしてくれました。

原先生は、実務面においてはまったく頼りなくて(笑)。アフリカ行きの準備、研究指導、就職の世話……何もしてくれません。頭の中は建築一色で、高尚なことを考えているんですけどね。でも逆に、日常生活面でのダメ部分をも知ったことで、「建築家は特別な人間ではない。俺でも、すごい建築ができるかもしれない」と思わせてくれた。無理に深く考えたり、偉そうなことを言う必要はなく、モノを素直に感じることのほうが大事━━まさに核心を教わったのです。同様に自然体である内田先生には、木造の面白さを教えてもらった。僕は、師にとても恵まれたと思っています。

隈が修士論文を書いていた時期、建築界には、安藤忠雄氏を筆頭とする第三世代が華々しく登場していた。コンクリート打ちっぱなしの小住宅で、社会に反骨を示威する。学生たちは憧れ、こぞってその路線を志向したが、隈は主流に反して、大手設計事務所に入社。「皆と同じではつまらない」「現実の世界で生きたい」――これもまた、隈らしい選択であった。

 嘘っぽいものに対する嫌悪感があって、僕が重んじているのはリアリティ。大手の設計事務所やゼネコンの人たちは、そのリアルな場で建築をつくっているわけで、逞しいんですよ。大手設計事務所で3年、その後は建設会社で3年。様々な経験や人との出会いを通じて、僕は本当の意味で社会勉強ができたし、〝仕事の仕方〞を学んだのはこの時期です。両社とも幸いなことに、若い僕に何でもやらせてくれました。設計中心ではありましたが、いろんな規模のプロジェクトに携わり、コンペから現場監理までと、すべて手がけることができた。面白かったですねぇ。

建築現場で会う人たちは、決して観念的じゃなく、「最後の責任は俺が取る」という姿勢で、親父さんたちは皆カッコいいわけ。職人とのやり取りも押したり引いたりでしょ。信頼関係を築くには何が大切か、身をもって知り得た。僕は早い時期から、建築を愛している人たちからナマの話を聞いてきたわけです。これは幸せなことですよ。

一方で、反面教師的なところもあります。大きな組織は効率的に仕事を進めるのが基本だから、新しいことには時間を費やさない。例えばスタディ模型。何度もつくりながら思案を重ねるということはなく、案が全部まとまってから納品用模型をポンとつくるというスタイル。「これでは面白い建築はできないな」。そう思ったものです。よかった点とその逆、両面を見たことで、日本社会の構造がわかったし、すべての経験は今につながっています。

模索と、地方の仕事を通じて形成された「隈流スタイル」

模索と、地方の仕事を通じて形成された「隈流スタイル」

模索と、地方の仕事を通じて形成された「隈流スタイル」

建築界の絶頂期にあったアメリカに「必ず留学する」と考えていた隈は、6年間で会社員生活に区切りをつけ、コロンビア大学に客員研究員として渡
米。31歳だった。隈が積極的に行ったのは、アメリカの名だたる建築、そして建築家を訪ねること。直接触れることは、実に有意だったという。そして、物議を醸したデビュー作『10宅論』は、この留学中に執筆されたものである。

アメリカの建築家って、当時は神様みたいなものですよ。とにかく会って、ナマの話を聞いてみたかった。奨学金をもらっていたロックフェラー財団の紹介で、多くの著名建築家を訪ねることができたのですが、なかでも貴重な面談となったのは、アメリカの20世紀建築を担ったフィリップ・ジョンソン氏。彼の広大な家を案内してもらった時、「偉大な建築家というのは、生活そのものが作品である」と思いましたね。加えて、彼だけでなく誰もがやさしく、サービス精神があって、有名なのに決して威張らない。そんな姿勢が相手を感動させるのだと知ったのです。

この頃、「コンクリート打ちっぱなしは違う」と否定するものはあったけれど、かといって、自分自身のスタイルも見えていなかった。「あれはダメ、これもダメ」。すべてを消去法でいじわるに眺めていた感覚です。86年、帰国直後に出した『10宅論』は、まさにその消去法の本で、書くことは自分にとっても模索の重要なプロセスだったのです。まぁ、建築家が手がけるアーキテクト派の住宅まで否定している点が画期的だったと、僕は思っているけど(笑)。さすがに「まずいか」とも考えましたが、でも意外に思い切って書くと、先輩方はリスペクトしてくれるものです。巨匠に対して物怖じしなかったことで、逆に、僕のような若造でも対等に扱ってくれた。これはこれで、一つ学びましたね。

時代はバブル景気真っ盛り。東京で事務所を構えた若い隈のもとにも、多くの仕事が舞い込んだ。そのなか、「『10宅論』が面白かった」ということで、広告代理店から声のかかった案件が、マツダのショールーム「M2」。初めてコンペに勝利した大型プロジェクトだった。しかし、完成したM2は「過剰な装飾」と批判にさらされ、加えてバブルも崩壊。以降10年間、隈の仕事の舞台は、地方に移っていく。

 M2でやりたかったのは、東京流のカオス。バブルに浮かれた時代と、モダニズム、ポストモダニズムに染まる建築界を批評しようとしたものですが、世の中は、それをポストモダニズムだと分類しちゃった。建築界からは「社会ウケを狙った作品」だと。僕としては、東京リアルを表現したつもりが、意図はまったく伝わりませんでした。

傍目には都落ちのように映ったと思うけれど、僕は、ずっと地方で仕事がしたかった。リアルな場所での仕事を。だけど、チャンスがない。日本では、行政とつながりを持つ建築家じゃないと地方の仕事はできない構造になっていたから、意外に壁は高かったのです。

地方での初仕事、高知の「梼原町地域交流施設」は、半ば偶然から始まったものです。高知にある古い芝居小屋の保存運動をしていた友人に声をかけられ、協力しようと現地に行ったのがきっかけ。その際に会った町長さんから「隈さん、トイレでもやってくれるの?」と聞かれて。「喜んでやります」と答えたのを覚えています。四万十川の源流に位置するこの町で、自然素材に対する関心がより強くなりました。そして、同時期に完成した愛媛の「亀老山展望台」。建築を丘陵に埋め込むという〝建築を消す〞手法を採ったのですが、自然環境としっかり向き合うことができた仕事です。

いい評判が立つとね、「隣の町でも」とチャンスが出てくる。地方の評判というのは、建築家にとってとても大事なんですよ。建物がいいのは当然のこととして、クライアントの予算をきちんと守って使いやすいものをつくる。メディアと地元、両方の評判がよくないといけない。特に若い人にとっては、そのバランスは難しいけれど、声をかけられた仕事に最大限力を尽くし、10年、20年続けていけば、社会のほうでも少しずつ信頼してくれるようになって、いずれ面白い建築をつくることができる。建築って社会との協働作業だから。そして、一発で世界の傑作をつくろうとせず、階段を一段ずつ登っていくような我慢強さが重要です。

「隈研吾を超える建築」を標榜し、今日も世界を駆けめぐる

「隈研吾を超える建築」を標榜し、今日も世界を駆けめぐる

「隈研吾を超える建築」を標榜し、今日も世界を駆けめぐる

地方での仕事の集大成は、2000年に完成した「那珂川町馬頭広重美術館」。この頃から「これが僕のスタイルだと、胸を張って言えるようになった」。冒頭で触れた〝負ける建築〞だ。再び東京の前線に復帰した隈は、次々とプロジェクトに駆り出され、その高い評価は作品群が証明している。そして、隈の名前を世界に知らしめる代表作となったのが、万里の長城の麓に建つヴィラ「竹屋」だ。

 敷地の山を、施主と視察していた時、「今日から半年くらいで完成させろ」って言うからびっくりしました(笑)。万里の長城のあんな場所につくること自体が大変だし、施工会社だって竹素材の扱いに慣れていないから、結局、設計も合わせると3年以上かかっています。でも、どんな条件提示でも怒らずに、まず「努力してみます」と言ってみることがコツなの(笑)。ポジティブに向き合うことが大事で、「なにシロウトが非常識なことを」と高圧的に出ると、絶対にうまくいきません。特に中国は、信頼社会なので、一緒に走って、信頼関係を築きながら条件整理を進めていくという感じですね。

僕は、中国に建っている超高層ビルに対する批判として「竹屋」をつくったのです。結果、対極となった素朴さが受け入れられたわけですが、予想外でした。これも『10宅論』の時と同じで、思い切って批評をぶつけてみたら、ちゃんと答えが返ってきて、さらに信頼関係が強くなったわけです。以降、中国では常にプロジェクトが動いていますが、僕にとっては心地いい環境です。建築の価値をわかってくれるというか、「作品が好きだから」とシンプルに依頼してくれる。日本だと様々なしがらみがあるし、隈研吾の名前だけが欲しいプロジェクトがたくさんあるから。仕事を受ける基準は、「今までの隈研吾を超える建築を」と思ってくれているか。僕は、そんな人たちと仕事がしたいのです。

追って、ヨーロッパにおいても大型コンペに勝利し、現在はパリと北京に海外事務所を展開する。走っている案件は、常時50〜60。海外6割、日本4割という比率だ。事務所を立ち上げた時は数名だったスタッフも、今は100名を超える。1年の半分以上は海外を駆けめぐりながら、他方、東京大学教授として教育にも力を注ぐ隈の生活は、当然のごとく多忙を極める。それはまるで、命の限界に挑むかのような日々だ。

ある程度の規模になると、「小さい仕事はやらないほうがいい」という事務所が多いでしょ。確かに、維持のためにはそれも重要なことです。でも、本当に面白いものって、小さな仕事だったりする。それを断っていくと、会社の士気が落ちるんですよ。小さい仕事って、若い連中にも〝任される〞チャンスだから、やりがいになる。だから、うちは予算規模は全然考えないし、路線を決めることもしていません。

その時の自分が、当事者として関心を持てるかどうか。これは重要なファクターです。僕の場合、今だったら福祉施設が面白そうだなと。少子高齢化は進むし、自分がお世話になる日も近いから〝俺の問題〞だとも思えるし、いい施設がないのなら自分でやってみたい。そういう軸があれば、どんなに小さな仕事でも楽しめるんですよ。

我々の仕事は、例えればテニスみたいなもので、玉が飛んできたら、それを打ち返せばいいんです。できる範囲でベストの玉を打ち返すだけ。激しいラリーの最中に、ゲーム全体のプランなんて、スポーツ選手は考えないでしょ。まずはラリーを続けないと話にならない。建築は長期戦です。社会とラリーを続けていくうちに信頼され、任され、本当に面白いものがつくれるようになるのです。だから、若い人たちにはラリーで汗をかき続け、それを楽しむ根気強さと、そこでのストレスに負けないおおらかさを、ぜひ持ってほしい。そして、何よりも建築を楽しむということ。振り返れば、僕はずっとそうしてきたように思うんです。

PROFILE

隈 研吾

隈 研吾

1954年8月8日 横浜市港北区生まれ
1979年3月   東京大学大学院工学部 建築意匠専攻修了
1985年6月   コロンビア大学建築・都市計画学科の客員研究員として渡米
1986年    帰国後、空間研究所設立
1990年    隈研吾建築都市設計事務所設立
2008年    フランス・パリにKuma &Associates Europe設立
2009年4月   東京大学工学部建築学科教授に 就任(現任)

主な受賞歴

●日本建築学会賞作品賞(1997年)
●村野藤吾賞(2001年)
●フランス芸術文化勲章オフィシエ(2009年)
●毎日芸術賞(2010年)
●芸術選奨文部科学大臣賞(2011年)
ほか多数

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