建築は長期戦。社会とラリーを続けていくうちに信頼され、任され、本当に面白いものがつくれるようになる
隈研吾建築都市設計事務所 隈研吾
「那珂川町馬頭広重美術館」(栃木)、「根津美術館」(東京)、「竹屋」(中国)、「ブザンソン芸術文化センター」(フランス)などに加え、昨年、10年の歳月を要して蘇った東京の新しい歌舞伎座。隈研吾の代表作は、国内はもとより世界中のいたるところに存在する。80年代後半、切れ味鋭い建築批評で名を知らしめた隈は、以降、建築家として常に時代の先端を駆け抜けてきた。時に陥った迷いや挫折は肥やしに変え、今日に至った隈の流儀は〝負ける建築〞。自己主張の強い建築をよしとせず、環境に溶け込む造形をとことん追求する。その実現のため、土地が発する声に耳を傾け、クライアントの意向にも心を砕く。この〝受け身の姿勢〞こそが、隈の心髄なのである。
模索と、地方の仕事を通じて形成された「隈流スタイル」
建築界の絶頂期にあったアメリカに「必ず留学する」と考えていた隈は、6年間で会社員生活に区切りをつけ、コロンビア大学に客員研究員として渡米。31歳だった。隈が積極的に行ったのは、アメリカの名だたる建築、そして建築家を訪ねること。直接触れることは、実に有意だったという。そして、物議を醸したデビュー作『10宅論』は、この留学中に執筆されたものである。
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アメリカの建築家って、当時は神様みたいなものですよ。とにかく会って、ナマの話を聞いてみたかった。奨学金をもらっていたロックフェラー財団の紹介で、多くの著名建築家を訪ねることができたのですが、なかでも貴重な面談となったのは、アメリカの20世紀建築を担ったフィリップ・ジョンソン氏。彼の広大な家を案内してもらった時、「偉大な建築家というのは、生活そのものが作品である」と思いましたね。加えて、彼だけでなく誰もがやさしく、サービス精神があって、有名なのに決して威張らない。そんな姿勢が相手を感動させるのだと知ったのです。
この頃、「コンクリート打ちっぱなしは違う」と否定するものはあったけれど、かといって、自分自身のスタイルも見えていなかった。「あれはダメ、これもダメ」。すべてを消去法でいじわるに眺めていた感覚です。86年、帰国直後に出した『10宅論』は、まさにその消去法の本で、書くことは自分にとっても模索の重要なプロセスだったのです。まぁ、建築家が手がけるアーキテクト派の住宅まで否定している点が画期的だったと、僕は思っているけど(笑)。さすがに「まずいか」とも考えましたが、でも意外に思い切って書くと、先輩方はリスペクトしてくれるものです。巨匠に対して物怖じしなかったことで、逆に、僕のような若造でも対等に扱ってくれた。これはこれで、一つ学びましたね。
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時代はバブル景気真っ盛り。東京で事務所を構えた若い隈のもとにも、多くの仕事が舞い込んだ。そのなか、「『10宅論』が面白かった」ということで、広告代理店から声のかかった案件が、マツダのショールーム「M2」。初めてコンペに勝利した大型プロジェクトだった。しかし、完成したM2は「過剰な装飾」と批判にさらされ、加えてバブルも崩壊。以降10年間、隈の仕事の舞台は、地方に移っていく。
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M2でやりたかったのは、東京流のカオス。バブルに浮かれた時代と、モダニズム、ポストモダニズムに染まる建築界を批評しようとしたものですが、世の中は、それをポストモダニズムだと分類しちゃった。建築界からは「社会ウケを狙った作品」だと。僕としては、東京リアルを表現したつもりが、意図はまったく伝わりませんでした。
傍目には都落ちのように映ったと思うけれど、僕は、ずっと地方で仕事がしたかった。リアルな場所での仕事を。だけど、チャンスがない。日本では、行政とつながりを持つ建築家じゃないと地方の仕事はできない構造になっていたから、意外に壁は高かったのです。
地方での初仕事、高知の「梼原町地域交流施設」は、半ば偶然から始まったものです。高知にある古い芝居小屋の保存運動をしていた友人に声をかけられ、協力しようと現地に行ったのがきっかけ。その際に会った町長さんから「隈さん、トイレでもやってくれるの?」と聞かれて。「喜んでやります」と答えたのを覚えています。四万十川の源流に位置するこの町で、自然素材に対する関心がより強くなりました。そして、同時期に完成した愛媛の「亀老山展望台」。建築を丘陵に埋め込むという〝建築を消す〞手法を採ったのですが、自然環境としっかり向き合うことができた仕事です。
いい評判が立つとね、「隣の町でも」とチャンスが出てくる。地方の評判というのは、建築家にとってとても大事なんですよ。建物がいいのは当然のこととして、クライアントの予算をきちんと守って使いやすいものをつくる。メディアと地元、両方の評判がよくないといけない。特に若い人にとっては、そのバランスは難しいけれど、声をかけられた仕事に最大限力を尽くし、10年、20年続けていけば、社会のほうでも少しずつ信頼してくれるようになって、いずれ面白い建築をつくることができる。建築って社会との協働作業だから。そして、一発で世界の傑作をつくろうとせず、階段を一段ずつ登っていくような我慢強さが重要です。
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- 隈 研吾
1954年8月8日 横浜市港北区生まれ
1979年3月 東京大学大学院工学部 建築意匠専攻修了
1985年6月 コロンビア大学建築・都市計画学科の客員研究員として渡米
1986年 帰国後、空間研究所設立
1990年 隈研吾建築都市設計事務所設立
2008年 フランス・パリにKuma &Associates Europe設立
2009年4月 東京大学工学部建築学科教授に 就任(現任)
- 主な受賞歴
●日本建築学会賞作品賞(1997年)
●村野藤吾賞(2001年)
●フランス芸術文化勲章オフィシエ(2009年)
●毎日芸術賞(2010年)
●芸術選奨文部科学大臣賞(2011年)
ほか多数