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建築は長期戦。社会とラリーを続けていくうちに信頼され、任され、本当に面白いものがつくれるようになる

建築は長期戦。社会とラリーを続けていくうちに信頼され、任され、本当に面白いものがつくれるようになる

隈研吾建築都市設計事務所 隈研吾

「那珂川町馬頭広重美術館」(栃木)、「根津美術館」(東京)、「竹屋」(中国)、「ブザンソン芸術文化センター」(フランス)などに加え、昨年、10年の歳月を要して蘇った東京の新しい歌舞伎座。隈研吾の代表作は、国内はもとより世界中のいたるところに存在する。80年代後半、切れ味鋭い建築批評で名を知らしめた隈は、以降、建築家として常に時代の先端を駆け抜けてきた。時に陥った迷いや挫折は肥やしに変え、今日に至った隈の流儀は〝負ける建築〞。自己主張の強い建築をよしとせず、環境に溶け込む造形をとことん追求する。その実現のため、土地が発する声に耳を傾け、クライアントの意向にも心を砕く。この〝受け身の姿勢〞こそが、隈の心髄なのである。

師や仕事場に恵まれ、建築家としての礎を築いた時代

「建築家になりたい」という志を胸に、73年、隈は東大工学部に入学。当然、志望は建築学科一本に絞っていたが、当時は難易度が高く、建築に進むのは一番大変な時期だった。何人も「学内浪人」が出るほどで、他学科への振り分けに対する恐怖感から、「受験勉強より、入学してからのほうが勉強した」。大学では建築構法を専門とする内田祥哉研究室に、そして大学院では集落研究で高名な原広司研究室に属し、隈はまた、学びを取り込んでいく。

かつて代々木のオリンピック会場を見た時は、近代的な建築に憧れた僕でしたが、すでに中学生の頃からは、それらに対する否定心が生まれていました。自分の家のボロさに対するコンプレックスは、時間とともに物が朽ちていく〝いい感覚〞に変わり、もとより僕は、文化人類学に興味があったので。第一人者である梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』が愛読書。サバンナの生活がカッコいいと思っていたから、対局にある近代的なもの、成り金的なものに対するアンチテーゼがあった。内田先生も原先生も、文化人類学的に民家、集落が持つ知恵や価値を研究する異色の教授です。だから僕は、二人の下で学ぶことにしたのです。

当時の原研究室は集落調査をしていて、「アフリカに行こう」とけしかけたのは僕。そう、サバンナですよ(笑)。スポンサー集めをし、外務省などに情報を取りに行きと、全部自分たちで組んだプロジェクトです。周囲からは「治安が悪くかなり危ない」と言われていたので、けっこう緊張して行ったんだけど、季節もよく、むしろ快適だった。集落で写真をパチパチ撮っているものだから、村人が通報して、警察官に体を調べられたりもしたけれど、それもいい経験。この2カ月間の旅は、都会っ子の僕に「どんな場所に放り出されても大丈夫」という、大きな自信をもたらしてくれました。

原先生は、実務面においてはまったく頼りなくて(笑)。アフリカ行きの準備、研究指導、就職の世話……何もしてくれません。頭の中は建築一色で、高尚なことを考えているんですけどね。でも逆に、日常生活面でのダメ部分をも知ったことで、「建築家は特別な人間ではない。俺でも、すごい建築ができるかもしれない」と思わせてくれた。無理に深く考えたり、偉そうなことを言う必要はなく、モノを素直に感じることのほうが大事━━まさに核心を教わったのです。同様に自然体である内田先生には、木造の面白さを教えてもらった。僕は、師にとても恵まれたと思っています。

隈が修士論文を書いていた時期、建築界には、安藤忠雄氏を筆頭とする第三世代が華々しく登場していた。コンクリート打ちっぱなしの小住宅で、社会に反骨を示威する。学生たちは憧れ、こぞってその路線を志向したが、隈は主流に反して、大手設計事務所に入社。「皆と同じではつまらない」「現実の世界で生きたい」――これもまた、隈らしい選択であった。

嘘っぽいものに対する嫌悪感があって、僕が重んじているのはリアリティ。大手の設計事務所やゼネコンの人たちは、そのリアルな場で建築をつくっているわけで、逞しいんですよ。大手設計事務所で3年、その後は建設会社で3年。様々な経験や人との出会いを通じて、僕は本当の意味で社会勉強ができたし、〝仕事の仕方〞を学んだのはこの時期です。両社とも幸いなことに、若い僕に何でもやらせてくれました。設計中心ではありましたが、いろんな規模のプロジェクトに携わり、コンペから現場監理までと、すべて手がけることができた。面白かったですねぇ。

建築現場で会う人たちは、決して観念的じゃなく、「最後の責任は俺が取る」という姿勢で、親父さんたちは皆カッコいいわけ。職人とのやり取りも押したり引いたりでしょ。信頼関係を築くには何が大切か、身をもって知り得た。僕は早い時期から、建築を愛している人たちからナマの話を聞いてきたわけです。これは幸せなことですよ。

一方で、反面教師的なところもあります。大きな組織は効率的に仕事を進めるのが基本だから、新しいことには時間を費やさない。例えばスタディ模型。何度もつくりながら思案を重ねるということはなく、案が全部まとまってから納品用模型をポンとつくるというスタイル。「これでは面白い建築はできないな」。そう思ったものです。よかった点とその逆、両面を見たことで、日本社会の構造がわかったし、すべての経験は今につながっています。

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模索と、地方の仕事を通じて形成された「隈流スタイル」

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PROFILE

隈 研吾

隈 研吾

1954年8月8日 横浜市港北区生まれ
1979年3月   東京大学大学院工学部 建築意匠専攻修了
1985年6月   コロンビア大学建築・都市計画学科の客員研究員として渡米
1986年    帰国後、空間研究所設立
1990年    隈研吾建築都市設計事務所設立
2008年    フランス・パリにKuma &Associates Europe設立
2009年4月   東京大学工学部建築学科教授に 就任(現任)

主な受賞歴

●日本建築学会賞作品賞(1997年)
●村野藤吾賞(2001年)
●フランス芸術文化勲章オフィシエ(2009年)
●毎日芸術賞(2010年)
●芸術選奨文部科学大臣賞(2011年)
ほか多数

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