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Architect's magazine

機能ばかりに固執してきた近代建築の思想は、根本から変えなきゃいけない時代にきている

機能ばかりに固執してきた近代建築の思想は、根本から変えなきゃいけない時代にきている

伊藤豊雄

2013年5月、“建築界のノーベル賞”と称されるプリツカー賞を受賞した伊東豊雄。周知のとおり、我が国を代表する建築家の一人である。様々な素材と表現形式に挑むことで、建築スタイルを革新し続けてきた伊東の根源にあるのは、常に「社会」と向き合おうとする姿勢だ。人々の営みや自然環境に真っ直ぐな視線を注ぎ、建築、そして建築家の在り方を常に問うてきた。72歳となった今も、伊東は、世界的なプロジェクトを牽引する一方、今般の行き過ぎた近代主義に異を唱え、「世紀の建築原理」を確立するべく先鋭的な活動に取り組んでいる。「建築家の肖像」初回は、そんな伊東のしなやかなる軌跡をひもといていく。

機能ばかりに固執してきた近代建築の思想は、根本から変えなきゃいけない時代にきている

豊かな自然と、存分な愛情に恵まれ、伸び伸びと育つ

出生地である京城府(現ソウル市)から日本に引き揚げたのは、伊東が1歳半の時。父親が商社に勤めていた関係で、伊東家は日本統治時代の韓国で暮らしていたが、日米開戦後まもなく、「勝ち目がない」と雲行きを見越した父親が、郷里である長野県に家族を送り返したそうだ。幼い伊東に京城時代の記憶はなく、原風景としてあるのは、下諏訪の美しく豊かな自然である。

たいそう努力家だった父は、商社で登り詰め、京城にいた頃が一番華やかだったようです。毎朝、キャデラックのお迎えがあって、僕は車に乗せてもらっては喜んでいたと聞いています。

僕らが日本に引き揚げた後もしばらく京城に残っていた父は、終戦直前に命からがら戻ってきたのですが、戦争ですべてを失ったわけだから、本当に大変だったと思う。それでもエネルギーのある人で、父は景気に左右されない商売を考え、信州味噌の製造業を興したんです。だから、戦後の貧しい時代にあっても、比較的恵まれた環境だったと思いますね。何より、遅くに生まれた待望の男児だったので、父は存分に僕を可愛がってくれた。ただ、小学校6年の時に亡くなってしまったので、男同士の葛藤のようなものもなく……記憶は「いいお父ちゃん」のままです(笑)。

1941年、日米開戦の年に、京城(現大韓民国ソウル市)にて誕生。父・槇男氏に抱かれてお宮参り

豊かな自然にも恵まれました。学校から帰ってくると、裸足で野山を駆け回り、目の前に広がる諏訪湖ではトンボ採りや釣りに夢中になる。文字どおり、伸び伸びと育ったわけです。今でも清浄な空気が好きだし、盆地で暮らしていたから、あのすり鉢状の空間が何とも心地いい。僕が、建築デザインにおいて曲面を使うことが多いのは、この頃の暮らしが影響しているのでしょう。山が取り巻いているのと同じで、曲面の壁は「人を優しく包んでくれる」という感覚が自然に働くんですよ。

野球少年だった伊東は、文武両道で、成績もずば抜けてよかった。本人曰く「できれば前に出たくないと、いつも思っていた」そうだが、否応なしに目立つ存在で、中学生時代は生徒会長にも祭り上げられた。そんな伊東を見込んで、東京の高校に進学するようアドバイスしたのは、担任教師だった。

実際、表に出るのは苦手で、成績表なんかにも「積極性に欠ける」ってよく書かれていたんですけど、野球とか運動会となると、がぜん元気になってヒーローでした(笑)。野球部の顧問でもあった担任がとてもいい先生でね、「お前だったら東京でもやれる。その気があるのなら、早く出たほうがいい」と言うのです。すでに次姉が上京していましたし、僕自身にも、試してみたいなぁという気持ちがあった。これを機に、母は味噌屋の商売を義兄夫婦に任せ、「東京で子育てをする」と決めたようです。その母と一緒に上京したのは、中学3年の6月でした。

大森第六中学校に編入したのですが、まず驚いたのは、生徒数の多さ。1クラス80人、それが11クラスですよ。第一次ベビーブーム世代ですから、どこも子供は多かったけれど、にしても、机が詰め込まれた教室はほとんど歩けない状態。「これは、とんでもない所に来ちゃった」と。人だらけ、加えてこっちは丸刈りの田舎者だから、コンプレックスもあって、最初はいやで仕方なかった。成績もガクンと落ちて、神童伝説は瓦解です(笑)。当初より、進学校である日比谷高校を受験するつもりだったので、好きな野球は一旦中断、勉強に集中したら、成績順位1桁にはもっていけましたが……この頃は、ちょっとしんどかったですねぇ。

建築への目覚め。アトリエ系事務所でエンジンを全開させる

建築への目覚め。アトリエ系事務所でエンジンを全開させる

建築への目覚め。アトリエ系事務所でエンジンを全開させる

当時、東大進学率が最も高かった日比谷高校に進学し、“落ち着いた”伊東は、野球を再開。仲間も得て、楽しい学生時代を過ごす。そして、自然な道行きとして東大受験を目指すわけだが、伊東が最初に選んだ進路は文I。理由は単純だ。「神宮球場に立ちたかったから」。入学後に本気で野球をやるには、文Iが一番ラクで時間が取れるだろうと踏んだのだ。

ところが、見事に受験失敗。それから浪人生活に入ったのですが、この頃から視力がだいぶ落ちてきて、野球が厳しくなってきた。結局、あきらめることにしたんです。となると、「俺は文Iに行っていったい何をするんだ?」ですよ(笑)。官僚になれるほど頭もよくないし、かといって、銀行や商社に勤めたところで出世するタイプじゃない。職業イメージを持てなかった僕は、電気通信科を出ていた義兄に影響を受け、急きょ、浪人の夏に理科系に進路変更したのです。「将来はエンジニアかなぁ」くらいの考えで。そして、2度目の受験で理Iに入学したというわけです。

仲間と草野球をやったり、適当に遊んだり、ごくごく普通の大学生でした。時代的には学生運動が盛んだったので、ノンポリの僕も、デモに参加するくらいのことはしていましたが。専攻を決める段になると、あまり成績がよくなかった僕にとって、電気や機械工学なんかは手が届かなくなっていた。残された選択肢の中から選んだのが、当時「工学部の落ちこぼれ」といわれていた建築学科。建築に対する知識もほとんどないまま……その程度の話で、ほんといい加減に生きていました(笑)。

ただ、丹下健三さんが代々木のオリンピック体育館をつくっていたし、メタボリストたちがデビューした時期で、建築がクローズアップされ始めた時代ではありました。大学の設計好きの仲間と親しくなるうちに、僕は少しずつ建築に対して興味を持つようになったのです。新しい建築や未来都市の夢を、次々と提案していくメタボリストたちの仕事や論理に触れ、憧れ、次第に意匠系に傾倒していった感じですね。

1年の浪人後、東京大学の理Iに合格。その後、建築学科へ。1964年、大学4年生の夏、代々木のオリンピック体育館の建設現場を視察

「人生が決定づけられた」のは、大学4年の夏。この頃、若き旗手として脚光を浴びていた菊竹清訓(きくたけ・きよのり)氏の建築設計事務所でアルバイトをしたことが、伊東に火を点けた。「ようやく、本気でエンジンがかかった」。鬼気迫るような設計の現場が、伊東を魅了したのである。

設計がまとまりかけた段階になっても、菊竹さんは突然、「これじゃダメだ!」とぶち壊したりする。それまで徹夜を重ねてきたスタッフは、呆然状態。そんなことが、しょっちゅうです。
「こんなエネルギーでものをつくっていくんだ」――狂気ともいえるような迫力でした。大学で学んでいるうちは理論前提で、建築は頭で考えるものだと思っていましたが、そうではなく身体全体で考えるもの。建築が本当に面白いと思わせてくれたのは、間違いなく菊竹さんです。1カ月のアルバイトを終えた日に、「来春からここに来ていいですか」と聞いたら、その場で「いいよ」と。僕にとっては幸せな出会いでした。

入所してからは、3日に1度は事務所に泊まり込む生活で、土日もなし。生涯で一番働いた時期です。僕は4年間お世話になったのですが、集中的にやった仕事は2つで、最初は「多摩田園都市計画」。現在の東急田園都市線の沿線に、新しい居住都市を開発するもので、僕は菊竹さんに付いて、模型づくりや展覧会の準備に奔走しました。結果的に、構想に現実離れしたところがあって、この計画は実現しなかったのですが、未来都市への夢があった時代でしょ。そのマスタープランに携わる仕事は、とても面白かったですね。

もうひとつが、1970年の大阪万博です。菊竹さん主導のもと、僕も万博のプロジェクトには深くかかわっていたんですけど、同時にこの頃、学生運動がピークになってきた。都市工学とか建築をやっている連中には、こういう動きに敏感な人が多かったから「万博の仕事なんかやってていいのか」などと言われたりする。国家のために働くのか、というムードです。周囲には、まだ大学に残って運動している仲間もいたので、その狭間にいるのがつらくなってきた。それで、菊竹さんには申し訳ないと思いながらも、69年、万博開催直前に事務所を辞めました。一方で、例えばユニットバスやシステムキッチンを筆頭に、急速に工業製品化が進んだ時代でもあります。何だか、憧れていたメタボリズムの思想そのものが社会に絡め取られていくような……そんな失望感がありましたねぇ。

長い寡作の時代を経て、公共建築に乗り出す。そして、迎えた”転機”

長い寡作の時代を経て、公共建築に乗り出す。そして、迎えた”転機”

長い寡作の時代を経て、公共建築に乗り出す。そして、迎えた“転機”

何のアテもない状態で事務所を辞めた伊東は、しばらく「ぶらぶらしていた」。30歳の時に「アーバンロボットURBOT」(79年、伊東豊雄建築設計事務所に改称)を設立するも、閉塞感が強く、第一次オイルショックが追い打ちをかけたこの時代、決していい船出ではなかった。ほとんど仕事がなく、伊東が建築家として世に出るのは、まだしばらく先の話である。

志があったというより、「自分でやるしかないなぁ」という成り行き的な独立でした。ちょうどこの頃、下諏訪で味噌屋をやっていた義兄夫婦が、店を畳んで上京することになり、東京での住居と、義兄が新しい商売のために建てる小さなビルを設計させてもらったのです。それが、ぶらぶら中の仕事(笑)。家のほうは「お前の好きにつくっていい。その代わり設計料はなし」、ビルはその逆で「設計料は払うから、要望どおりにつくってほしい」。そんな交換条件でね。この時の住宅が「アルミの家」で、僕の独立第1号の仕事です。

義兄のビルの一角を間借りして自分の事務所を構えたのですが、もう食うや食わずですよ。「手伝わせてください」と来てくれたスタッフにも、給料なんて払えない。道路公団にいる友だちがバース描きの仕事を紹介してくれて、当時30万円ほどもらえたから、「これで1カ月、みんなで食おう」みたいな(笑)。あとは親戚、友人の住宅を細々とやりながら……3カ月先までは持つが、その先は見えないという状態が長らく続いていました。でも、周りにそんな連中も多かったし、「何とか食っていけるんだろう」くらいの調子ですよ。

そもそも、僕らは営業ができないというか、しない。頭を下げて取った仕事は、思うような設計ができませんから。ゼネコンの設計部の下請けをやって食いつなぐ道もありましたが、言われたとおりの図面を描くだけの仕事でしょ。「それは絶対にやらないぞ」と。とまぁ、仲間うちでそんな議論をしているものだから、カッコ悪くてできない(笑)。外に行って飲むお金はないので、酒を持ち寄って、目指す建築を仲間たちと喧々諤々やり合う。今思えば、楽しくて本当にいい時代でした。

80年代半ばから、いわゆるバブル景気となり、伊東の仕事も、商業建築など少しずつ広がりを見せるようになってきた。そして、以降の大きな足掛かりになったのが、91年に発表された「八代市立博物館未来の森ミュージアム」である。伊東の公共建築第1号だ。50歳になっていた伊東の、遅まきの躍進がここから始まる。

博物館のプロジェクトは、コミッショナーを務めていた磯崎新さんの推薦を受けて参加したものですが、これができたのが大きかった。不特定多数の人が利用する施設ということでプレッシャーはあったけれど、完成した博物館は、表現の部分で「非常に新しい」と評価していただけた。ただ、展示そのものが弱くて、「楽しい博物館だね」という評価にはならなかった。贅沢な話ですが、結果的に僕は、それではつまらないと思ったんですよ。新しさ、楽しさ。かたちの問題ではなく、建築家が社会に対して「人々のためにこういう場を」と提案すること、それが公共建築の一番の難しさであり、面白さであると考えるようになったのです。

その点で「せんだいメディアテーク」は、最大の転機となった仕事ですね。図書館やギャラリーなど、4つの機能を複合させることから始まった施設ですが、僕は「どこで何をやってもいいじゃない」という発想で、いわば公園や広場みたいな空間を提案したんです。それでコンペに勝ったのですが、いざ始まってわかったのは、発注者は通常の公共施設を求めていたということ。コンペ審査員と、自治体の考えに大きなギャップがあったのです。最初は衝突の連続で、途中何度も、模型をぶん投げて帰ろうかと思った(笑)。

でも、根気よくギャップを埋めていく作業を続けるなか、地元の大学の先生方が後押ししてくれたり、役所内に“味方”ができたことで、一つ一つを共に考えながら解決していったのです。この過程で、考え方が大きく変わりました。どこかで「俺の設計が一番だ!」と思っていたのが、市民や様々な関係者と議論をし、その声を組み込んだほうが面白いものができると。建築は社会に役立つべきもの、その本質が見えてきたのです。「せんだいメディアテーク」は、僕に多くのことを教えてくれました。今、仙台の人たちが楽しんで使ってくれていること、施設のスタッフもプライドを持って頑張ってくれていることが、何よりうれしいですね。

後進の育成と共に、“次なる建築”をリード。挑戦はさらに続く

後進の育成と共に、“次なる建築”をリード。挑戦はさらに続く

後進の育成と共に、“次なる建築”をリード。挑戦はさらに続く

以降、伊東の建築は大きく変化した。こだわってきた軽快さや抽象性よりも、「強さ」「楽しさ」といった人間の持つ生命力をストレートに表現する――それは、近代建築からの脱却でもある。「まつもと市民芸術館」「座・高円寺」といった代表作をはじめ、「トーレス・ポルタ・フィラ」(スペイン)、「高雄ワールドゲームズメインスタジアム」(台湾)など、海外においても精力的に活動。その足跡は大きい。

クライアントと共に、長い時間をかけて議論しながらつくり上げていくという点では、正直、海外の仕事のほうが充足感はある。建築に対する関心の持ちようが違うんです。立ち上がりの段階から「どうしてこうなっているんだ?」と、素朴に興味を持ってくれる。日本は、こと公共建築になると機能ありき、管理しやすさありきで、新しいことに対するリスクを、どうしても避けたがりますからね。

ただ、施工能力は圧倒的に日本が高い。海外コンペになると、「この国だったら、技術的にここまでだな」って設計をケアするんですけど、バックグラウンドに日本のゼネコンがいてくれれば、何の心配もありません。コンクリートの壁にしても、鉄骨にしても、精度が1桁違う。日本で1mmの誤差があれば、海外では1cm違う感覚です。日本の建築家が海外で評価されるのは、半分はゼネコンの技術力のおかげですよ。昨今、お家芸だった電気製品なんかは、あまり差がなくなってきたけれど、日本の建築技術はダントツ、世界に誇れるものだと思います。現在進行中の台中のオペラハウスも、本当はもうとっくに完成している予定だったのに、14年いっばいはかかりそうで。やはり、施工技術の問題で苦労しています。いつも思うんですよ。海外のぷあプロジェクトにも、日本のゼネコンと職人さんを連れていきたいって(笑)。

2011年。事務所設立周年にあたるこの節目に、伊東は、後進の育成のために私塾を立ち上げた。東日本大震災が起きたのは、その矢先のこと。伊東は、塾生らと共に被災地に通いながら「これからの建築」を考え、他方、志ある建築家たちと、被災者のための「みんなの家」プロジェクトを展開するなど、復興活動に力を注ぎながら、今また新たなステージに立っている。

少し希望が見えてきたのは、釜石市が進めている「かまいし未来のまちプロジェクト」です。集合住宅や学校など、主要施設の設計を担うパートナーを公募型のプロボーザルで選び、民意を汲み上げながら進める新しいかたちの復興計画です。政府主導の計画は相変わらず機能主義で、例えば、防波堤ひとつで住む所を切り分けるような発想では、東北らしい、今日まで積み上げてきた町にはならないんですよ。機能主義ではなく、もっとソフトの部分を組み込んだ次なる発想で町を復興させていく――釜石市が先んじてそれをやろうとしている。僕は、復興ディレクターとして参加していますが、今後も全力を尽くしたいと思っています。

僕らも含めて、戦後は近代建築にどっぶり浸かってやってきたわけです。機能という概念によって人間の活動を抽象化し、それらの要素を組み合わせて「これが最適です」と。でもね、人間の活動って、本来そんなに割り切れるものじゃない。もっと複雑なことやニュアンスの総合作用で成り立っている。機能は、むしろ曖昧にしていったほうが楽しく自由に過ごすことができると考えています。もうひとつ、近代建築は自然との関係を切り捨ててきました。その弊害は大きい。もう近代主義の思想は、徹底的に変えないといけない時期にきていると思うのです。

これからの人生で一番やりたいのは、若い人を育てること。人々のために、社会のために、建築はどうあるべきかを考える人材です。そして理想的には、近代建築のセオリーから解き放たれた「21世紀の建築原理」をつくり上げていきたい。まだまだ、走り続けないといけませんね。

PROFILE

伊藤豊雄

伊藤豊雄
1941.6.1京城府(現大韓民国ソウル市)生まれ
1965.3東京大学工学部建築学科卒業
1965.4菊竹清訓建築設計事務所入所
1969.4菊竹清訓建築設計事務所退所
1971.3株式会社アーバンロボット URBOT設立
1979.7株式会社伊東豊雄 建築設計事務所に改称
主な受賞歴

日本建築学会賞作品賞(1986年、2003年)

日本芸術院賞(1999年)

ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞 (2002年に生涯業績部門、2012年にコミッショナーを務めた日本館)

王立英国建築家協会(RIBA) ロイヤルゴールドメダル(2006年)

高松宮殿下記念世界文化賞(2010年)

プリツカー賞(2013年)

ほか多数

 

 

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