アーキテクト・エージェンシーがお送りする建築最先端マガジン

Architect's magazine

機能ばかりに固執してきた近代建築の思想は、根本から変えなきゃいけない時代にきている

機能ばかりに固執してきた近代建築の思想は、根本から変えなきゃいけない時代にきている

伊藤豊雄

2013年5月、“建築界のノーベル賞”と称されるプリツカー賞を受賞した伊東豊雄。周知のとおり、我が国を代表する建築家の一人である。様々な素材と表現形式に挑むことで、建築スタイルを革新し続けてきた伊東の根源にあるのは、常に「社会」と向き合おうとする姿勢だ。人々の営みや自然環境に真っ直ぐな視線を注ぎ、建築、そして建築家の在り方を常に問うてきた。72歳となった今も、伊東は、世界的なプロジェクトを牽引する一方、今般の行き過ぎた近代主義に異を唱え、「世紀の建築原理」を確立するべく先鋭的な活動に取り組んでいる。「建築家の肖像」初回は、そんな伊東のしなやかなる軌跡をひもといていく。

建築への目覚め。アトリエ系事務所でエンジンを全開させる

当時、東大進学率が最も高かった日比谷高校に進学し、“落ち着いた”伊東は、野球を再開。仲間も得て、楽しい学生時代を過ごす。そして、自然な道行きとして東大受験を目指すわけだが、伊東が最初に選んだ進路は文I。理由は単純だ。「神宮球場に立ちたかったから」。入学後に本気で野球をやるには、文Iが一番ラクで時間が取れるだろうと踏んだのだ。

ところが、見事に受験失敗。それから浪人生活に入ったのですが、この頃から視力がだいぶ落ちてきて、野球が厳しくなってきた。結局、あきらめることにしたんです。となると、「俺は文Iに行っていったい何をするんだ?」ですよ(笑)。官僚になれるほど頭もよくないし、かといって、銀行や商社に勤めたところで出世するタイプじゃない。職業イメージを持てなかった僕は、電気通信科を出ていた義兄に影響を受け、急きょ、浪人の夏に理科系に進路変更したのです。「将来はエンジニアかなぁ」くらいの考えで。そして、2度目の受験で理Iに入学したというわけです。

事務所ビルの前でスタッフと。フラットな組織の中で、スタッフの意見やアイデアを吸い上げながら、設計を生み出しでいくのが、伊東氏のスタイル

仲間と草野球をやったり、適当に遊んだり、ごくごく普通の大学生でした。時代的には学生運動が盛んだったので、ノンポリの僕も、デモに参加するくらいのことはしていましたが。専攻を決める段になると、あまり成績がよくなかった僕にとって、電気や機械工学なんかは手が届かなくなっていた。残された選択肢の中から選んだのが、当時「工学部の落ちこぼれ」といわれていた建築学科。建築に対する知識もほとんどないまま……その程度の話で、ほんといい加減に生きていました(笑)。

ただ、丹下健三さんが代々木のオリンピック体育館をつくっていたし、メタボリストたちがデビューした時期で、建築がクローズアップされ始めた時代ではありました。大学の設計好きの仲間と親しくなるうちに、僕は少しずつ建築に対して興味を持つようになったのです。新しい建築や未来都市の夢を、次々と提案していくメタボリストたちの仕事や論理に触れ、憧れ、次第に意匠系に傾倒していった感じですね。

1年の浪人後、東京大学の理Iに合格。その後、建築学科へ。1964年、大学4年生の夏、代々木のオリンピック体育館の建設現場を視察


「人生が決定づけられた」のは、大学4年の夏。この頃、若き旗手として脚光を浴びていた菊竹清訓(きくたけ・きよのり)氏の建築設計事務所でアルバイトをしたことが、伊東に火を点けた。「ようやく、本気でエンジンがかかった」。鬼気迫るような設計の現場が、伊東を魅了したのである。

設計がまとまりかけた段階になっても、菊竹さんは突然、「これじゃダメだ!」とぶち壊したりする。それまで徹夜を重ねてきたスタッフは、呆然状態。そんなことが、しょっちゅうです。「こんなエネルギーでものをつくっていくんだ」――狂気ともいえるような迫力でした。大学で学んでいるうちは理論前提で、建築は頭で考えるものだと思っていましたが、そうではなく身体全体で考えるもの。建築が本当に面白いと思わせてくれたのは、間違いなく菊竹さんです。1カ月のアルバイトを終えた日に、「来春からここに来ていいですか」と聞いたら、その場で「いいよ」と。僕にとっては幸せな出会いでした。

入所してからは、3日に1度は事務所に泊まり込む生活で、土日もなし。生涯で一番働いた時期です。僕は4年間お世話になったのですが、集中的にやった仕事は2つで、最初は「多摩田園都市計画」。現在の東急田園都市線の沿線に、新しい居住都市を開発するもので、僕は菊竹さんに付いて、模型づくりや展覧会の準備に奔走しました。結果的に、構想に現実離れしたところがあって、この計画は実現しなかったのですが、未来都市への夢があった時代でしょ。そのマスタープランに携わる仕事は、とても面白かったですね。

もうひとつが、1970年の大阪万博です。菊竹さん主導のもと、僕も万博のプロジェクトには深くかかわっていたんですけど、同時にこの頃、学生運動がピークになってきた。都市工学とか建築をやっている連中には、こういう動きに敏感な人が多かったから「万博の仕事なんかやってていいのか」などと言われたりする。国家のために働くのか、というムードです。周囲には、まだ大学に残って運動している仲間もいたので、その狭間にいるのがつらくなってきた。それで、菊竹さんには申し訳ないと思いながらも、69年、万博開催直前に事務所を辞めました。一方で、例えばユニットバスやシステムキッチンを筆頭に、急速に工業製品化が進んだ時代でもあります。何だか、憧れていたメタボリズムの思想そのものが社会に絡め取られていくような……そんな失望感がありましたねぇ。

【次のページ】
長い寡作の時代を経て、公共建築に乗り出す。そして、迎えた“転機”

ページ: 1 2 3 4

PROFILE

伊藤豊雄

伊藤豊雄
1941.6.1京城府(現大韓民国ソウル市)生まれ
1965.3東京大学工学部建築学科卒業
1965.4菊竹清訓建築設計事務所入所
1969.4菊竹清訓建築設計事務所退所
1971.3株式会社アーバンロボット URBOT設立
1979.7株式会社伊東豊雄 建築設計事務所に改称
主な受賞歴

日本建築学会賞作品賞(1986年、2003年)

日本芸術院賞(1999年)

ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞 (2002年に生涯業績部門、2012年にコミッショナーを務めた日本館)

王立英国建築家協会(RIBA) ロイヤルゴールドメダル(2006年)

高松宮殿下記念世界文化賞(2010年)

プリツカー賞(2013年)

ほか多数

 

 

人気のある記事

アーキテクツマガジンは、建築設計業界で働くみなさまの
キャリアアップをサポートするアーキテクト・エージェンシーが運営しています。

  • アーキテクトエージェンシー

ページトップへ