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Architect's magazine

広く建築や都市、そして人々と真正面から向き合っていく。未来のために職能を生かすのが僕たち建築家の役割なのだから

広く建築や都市、そして人々と真正面から向き合っていく。未来のために職能を生かすのが僕たち建築家の役割なのだから

迫 慶一郎

「中国で最も活躍する建築家の一人」。多くのメディアは、迫慶一郎をそう称する。事実、迫がこれまで手がけたプロジェクトの8割以上は、中国での仕事が占める。それも、都市のランドマークになるような巨大プロジェクトばかりだ。現在は北京、東京、福岡の3拠点に事務所を構え、ロシアや中東などからもオファーが舞い込んでいる。44歳と、業界にあっては若手ながら、世界に羽ばたく様は華々しい。しかしその裏側には、すさまじい働きと、どのような逆境にも屈しない〝挑み〞の連続がある。「建築家の本分は社会に貢献し、未来をつくること」。そう言い切る迫は、今、建築家という枠を超えて、震災による被災地復興や、企業のブランディングも手がけるなど、マルチな活動に精力を注ぎ込む。常に全力疾走――それが、迫の生き方だ。

人生最大のチャンスをくれた国、中国との出合い。そして格闘

 2000年、迫は北京市で70万㎡という巨大プロジェクトのコンペを担当することになった。それが、複合施設の「建外SOHO」。中国との初めての出合いであり、のちの人生を大きく変える端緒となった仕事である。そして04年、迫は「最高のトレーニングの場」となった山本理顕設計工場を辞し独立、その歩を進めていく。

 例によって、山本さんが「迫、お前やれ」と(笑)。当時、僕は30歳でした。もちろん、山本さんあっての話ですが、建外SOHOは事務所としても海外初のプロジェクトで、しかもケタ外れのスケール。全身全霊で臨んだ結果、コンペに勝ちましたが、一方でそれは、大変なことの始まりでもありました。以降の1年間は、プランの修正続き。許可が下りるまでに、十数回マスタープランを変更したでしょうか。そして、感覚の違い。例えば、中国人はすぐ「没問題(問題ない)」という言葉を使うのですが、実際にはことごとく問題がある(笑)。この感覚を身につけるまで苦労したし、何かにつけ喧々諤々。それはもうシビアな現場でしたが、でも、それを超えるやりがいがあったと、はっきり言えますね。

 ずっと、欧米への憧れはあったのです。建外SOHOの3期工事が終わったら、それを区切りにニューヨークに行って修業しようと考え、山本さんにも話をしていました。そうしたら、「力は十分についているから、もう建築家のもとで働く必要はないんじゃないか。研究機関がいい」と言われて。それで、当時の建築において世界の最先端を走っていたコロンビア大学への留学を希望したわけです。ここで客員研究員の立場を得るのは非常に難しいのですが、山本さんを始め、名だたる建築家の方々が支援してくださり、僕は導かれるように希望を叶えたのです。

 山本さんの事務所を辞めて、コロンビア大学に行くまでの半年間は充電期間にして……と思っていた矢先、一本の電話が。中国人の建築評論家からのもので、「地方都市の交通局のオフィスビルをつくらないか」という。それが「金華キューブチューブ」です。耳を疑いました。こんな外国人の若造に、しかも公共建築でしょ、ありえない話ですよ。まだ中国が、都市開発の黎明期にあったから、巡ってきた大チャンスでした。それで必要に迫られるかたちで、北京にいきなり自分の事務所を構えることになったんです。

 むろん、長年の夢だったコロンビア大学への留学をあきらめたわけではない。1年間は、中国とアメリカを2週間ごとに往復する日々。「かなり痩せた」というほどハードだったが、迫は仕事と研究を両立させた。「SAKO建築設計工社」を旗揚げしてからの10年間、それは、中国の大きなうねりの時代でもあった。経済成長著しい同地で、迫は心身を投じ、数々のプロジェクトに全精力を傾けてきた。

 例えば、金華キューブチューブは非常にシンプルなかたち。建外SOHOの時の仕事経験が生きていて、中国では、どうすればコントロールの効くつくり方ができるか、それがわかっていたので、平面、立面などすべてに550㎜角のモジュールを採用したんです。それを基準にし、「はみ出さないように」という共通言語のもとにつくった。仕上がりは、なかなかいいランドマークになったと思っています。

 そして、僕が提唱している「チャイニーズブランド・アーキテクチャー」の一つの集大成となったのが「抗州ロマンチシズム2」。中国の施工技術はやはり日本より劣るから、逆転の発想で、人件費が抑えられている中国だからこそ可能な、膨大な量の手仕事を取り入れたのです。この建築物のりんごのネットのような白い網は、すべて手作業だからこそ完成した。つまり、現地で何が得意かを見極めることが大切なのです。そして白い網には、ヨットの船体に使われる素材、FRPを使用。ヨット部時代に触れていた耐久性の高い素材に気づき、生かすことができた。結局、今までに見たり聞いたり、経験してきたものを咀嚼し、いかに自分の方向性をつくり出せるか。それがクリエイティブだと思うんですよ。

 中国で仕事をしていると、設計変更や施工精度の低さの問題、お金の取りっぱぐれなんてしょっちゅう。ビジネスの視点で考えたら大変です。それでも面白いのは、日本では経験できないような仕事ができるから。今、江蘇省鎮江市で100万人の都市計画を進めていますが、面積は実に220㎢。山手線内側の3・5倍の面積ですよ。日中の産学官の力を結集したプロジェクトで、こんな川上からかかわれる仕事もある。20年、30年というプロジェクトになるでしょうが、僕は日中間の架け橋になれればと思っているんです。

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未来のために、「建築家ができること」を模索し、走り続ける

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PROFILE

迫 慶一郎

迫 慶一郎

1970年7月16日 福岡県福岡市生まれ
1996年3月   東京工業大学大学院
理工学研究科建築学専攻修了
1996年 4月   山本理顕設計工場入所
2004年2月   SAKO建築設計工社設立
2004年9月   米国コロンビア大学客員研究員、
文化庁派遣芸術家在外研修員
(~2005年)

主な受賞歴

<2013年>
蔵前ベンチャー賞
<2012年>
GOOD DESIGN IS GOOD BUSINESS
China Awards 2012(中国)
<2010年>
2009-2010年度国際設計芸術成就賞(中国)
<2009年>
Euro Shop Retail Design Award 2009
One of Three Best Stores Worldwide
<2008年>
グッドデザイン賞
現代装飾国際メディアプライズ2007(中国)
ベストデザイナー賞
ほか、JCDデザインアワード(2004年より11年連続)
など多数

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