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「人が居ることが許される」空間や場所をつくっていくのが僕の使命。これからの都市や建築の概念は、人間中心で考えるということに尽きる

「人が居ることが許される」空間や場所をつくっていくのが僕の使命。これからの都市や建築の概念は、人間中心で考えるということに尽きる

内藤 廣

内藤廣は、出世作となった「海の博物館」を皮切りに、「安曇野ちひろ美術館」「牧野富太郎記念館」など、とりわけ公共建築において次々と話題作を生み出してきた。周辺環境やまちの将来像を見据えたそれら作品群から、「流行を追わず、時に耐えうるものをつくる建築家」と称される。商品化、耐久消費財化が進んだ建築に異を唱え、空間や場所に、何十年も続く川の流れのような価値を吹き込む。それを可能にしているのは、極限まで自らを追い込む姿勢と、たとえリスクを伴っても常に新しいことに挑むスピリットだ。「人の居場所をつくるのが僕の仕事」。平易ながら、この深甚ある言葉に、内藤の軌跡は集約されている。

建築家・山口文象氏の進言によって開かれた建築への扉

祖父が立身した事業家で、内藤は、一族が横浜に構えていた2000坪もあるような屋敷で生まれた。しかし、その前年には祖父が他界しており、戦後のドサクサや相続争いに巻き込まれ、多くのものを失った格好で、5歳の時から鎌倉に移り住んでいる。

住んでいた屋敷が人の手に渡り、生活が大きく一変したことは、幼い頃の話ながらまだ記憶に残っています。思えば、建築家になったというのは「環境を失う」という体験が、根っこのところで影響しているのかもしれません。

それと、父のものづくりのDNA。父は、ロケット開発で高名な糸川英夫さんの研究室で航空工学を学び、航空機や自動車のデザイン、開発に携わっていました。晩年になってからも「鳥人間コンテスト」を仕掛けたり、人力ヘリコプターを道楽のようにつくっていたり。もっとも、僕には父のような優秀かつデジタルな脳みそはなく、出来の悪い長男だったとは思いますが。

内藤廣文中画像

1958年、父がオカムラで開発していた自動車を後ろに父と母と

小学生の頃は、文字どおり並の成績だったし、要領も決してよくはなかった。3年生の時だったか、通信簿に「内藤君は、仲間の悪巧みに最後のあたりで加わり、逃げ遅れてはいつも立たされている」と書かれまして。誰かが何か面白そうなことをやっていると、興味はあるけど、利発じゃない僕は遅まきに加わって、結果、叱られ組になる。小学校の先生の見抜きってすごいですよ。今も、さして変わらないような人生を歩んでいると思うから(笑)。

中・高校生時代に打ち込んだのは卓球部での活動。次第に成績を上げた内藤は、進学校の湘南高校に入学した後も、ほぼ休みなしで練習に明け暮れ、3年生後半まで主将として最後の大会に臨んだ。その内藤が、建築学科を受験すると公言した際、「そういう世界とは無縁の体育会系というイメージだから、クラスの連中に大笑いされた」。

具体的に、建築家や建物に憧れてというわけではないんです。確たる将来像がなかった僕は、親戚に医者やデザイナーなどがいたので、いろいろと職業について聞いて回ったのです。その時、母が「山口のおじさんは建築家みたいよ。話を聞いてみたら」と。山口文象さんです。そんな偉い建築家だとは知りませんでした。実は、母の実家が山口邸の隣で、幼い頃よく遊びに行っていたのです。山口さんは「ひろちゃん、よく来たね」と、いつも可愛がってくださった。訪ねた折に助言されたのは、「人間そのものや生活を扱う建築を勉強しておけば、将来何にでもなれる。とりあえずやってみたら」。この言葉がきっかけになりました。

当時の空気として、1年、2年浪人して東大に行くのがザラだったので、僕も漠然とそう考えていたのですが、受験の年は安田講堂が炎上。翌年に東大を狙ったものの叶わず、早稲田の建築学科に入学したというわけです。

しかしながら、こちらも大学はロックアウト状態で、授業などまともに受けられる環境じゃなかった。大学にはほとんど行かず、やっていたことといえば一人旅。建築事務所でバイトしながら、少しお金が貯まるとぷらっと出かける。乗る列車を決めずにまず上野駅に行き、気の赴いた先に向かうんです。なかでも、北海道や東北にはよく旅をしました。今、僕は三陸の復興に携わっていますが、どこかでこの頃の土地勘が生きている。若い頃の経験は大きいというか、やはり貴重ですよね。

師から強烈な影響を受け、「建築に向かう根源」を学ぶ

師から強烈な影響を受け、「建築に向かう根源」を学ぶ

師から強烈な影響を受け、「建築に向かう根源」を学ぶ

「この大学はつまらない」と思っていた内藤に、「早稲田には吉阪隆正という面白い建築家がいる」と教えてくれたのは、やはり山口氏であった。大学には行かずとも成績優秀だった内藤は、のちの大学院時代も通じて、最難関といわれた吉阪研究室で学ぶ機会を得る。同氏から受けた深い教えは、今なお内藤のなかで息づいている。

建築というよりも、人間としてどう生きるか、社会に対してどう向き合うかということを無言のうちに教えられました。吉阪さんは大学で教え、社会的な役割もたくさん引き受け、設計もと、ひどく忙しい人だったから、直接話した時間は少ない。でも、彼の命がけのすさまじい生き方は、どんな言葉よりも影響力があった。本当の教育って、そういうものだろうと思いますね。

大学の卒業設計に臨んだ時のこと。忘れられない一件があります。学生運動の煽りを受け、当時は「建築をまともに語るのは恥ずべきこと」みたいな空気があったんですね。だから卒業設計とはいえ、単に建築を設計するのは枝葉末節なことに思えて、僕は、自分が世の中をどう見ているかを建築という領域で表現しようと考えたのです。

それで吉阪さんに相談したところ、話は人間の生死にまで及び、僕は「先生、人は人を殺せるものですか」と聞いたんですよ。すると長い沈黙のあと、「道具を持ってすればできると思う」とおっしゃった。おそらく、吉阪さんの戦争体験によるものでしょうが、すごく重い言葉でした。そして、次に言われたのは「君のアイデアは、人が建築のなかで生きることばかりを考えている。君がいう全体像をはっきりさせるには、死という要素を置かないとだめだ」。そして僕は、集合住宅から流れるように様々な施設をつくり、最終的には墓地に行き着くようなプロジェクトを完成させたのです。

これで、人の生死や長い時間軸を意識するようになったのは確かです。今もそう。吉阪さんと出会わなかったら、僕の建築はまったく変わっていたでしょうね。けっこう売れ線の建築家になっていたかもしれない(笑)。強烈な教えを背負っちゃったから、不自由極まりない人生になっている。

1970年代前半。ドルショックやオイルショックがあり、一方では東西冷戦真っただ中で、ベトナム戦争が続いていた。内藤らが社会に出る時は、そんな時代だった。「建築をつくることなど、どれほどの意味があるのか」。絶望にも似た思いで建築をあきらめ、就職する学生も多かったと聞く。内藤が選んだ道は、スペインの建築家、フェルナンド・イゲーラスの事務所に修業に出ることであった。

メジャーな海外の建築家より、僕が気になっていたのはフェルナンド。雑誌で見た彼の記事が印象的だったのです。論理や鍛練を積み上げていく建築ではなく、直感ですべてを捉えるような建築。いわゆる天才です。相対してみて、改めてそう感じました。当時やっていたカナリア諸島の集合住宅プロジェクトのスケッチを見たのですが、さして大きくない紙のなかに、全体像からディテールに至るまで余すところなく描かれている。すごいですよ、それを見れば全部できるんですから。

ただ、この頃のスペイン社会は革命に近い激動期で、その煽りを食って仕事がなかったし、フェルナンド自身のメンタリティも絶望感のほうが強かったように思います。僕がいた2年間は、仕事の経験というより、彼と膝詰めで共に過ごした時間という感じでした。

帰る時は、陸路でシルクロードを通りながらと決めていたので、主に中近東を見て回りつつ半年かけて帰国しました。頭の整理をしたかったので、1年間は仕事をしないつもりでしたが、吉阪さんが気にかけてくれ、僕を菊竹清訓建築設計事務所につないだのです。かつて菊竹さんのところに行った際、グレーの所員用ロッカーが並んでいるのを見て、「僕には向いてないなぁ」と思った事務所(笑)。多分、吉阪さんは、ヨーロッパの伝統をたたき込まれた僕が固まってしまわないよう、一度壊すつもりで入れたのでしょう。

菊竹さんもまた、天才ですよね。こと60年代の仕事は、建築家として常人が達せられないような域にある。しかしながら僕が入所した時代は、ポストモダニズムの扉が開かれ、その流れのなかで菊竹さん自身が非常に迷っているように映りました。在籍したのは約2年で、ここでも僕は、実務というより物事に対する考え方を学びました。常人とは全然違う次元で発想を切り開くすごさ、常に新しい技術的要素を取り込む柔軟性。僕に限らず、菊竹さんから学び、影響を受けたOBたちは少なくありません。

話題作をつくり続ける根底にあるのは、〝挑戦〞というスピリット

話題作をつくり続ける根底にあるのは、〝挑戦〞というスピリット

話題作をつくり続ける根底にあるのは、〝挑戦〞というスピリット

自分の事務所を構えたのは81年、内藤が31歳の時。しばらく続いた「ギリギリ食えるかどうか」という状況に、一大転機をもたらしたのが「海の博物館」である。約7年にわたりエネルギーを注いだこのプロジェクトは高く評価され、以降、内藤のもとには次々と仕事が舞い込むようになった。

「海の博物館」は、端的にいえばローコストと耐久性、双方の限界に迫った建築です。収蔵庫も展示棟も坪単価50万円を切るような予算で、これは、同時期バブル全盛だった東京の4分の1くらいですよ。耐久年数については「100年は持たせたい」と。展示品を何十年もの長きにわたって保持する博物館の使命からすれば、もっともな話です。しかし、意義あるプロジェクトだとはいえ、とんでもなく大変な仕事だったことも事実です。

マテリアルの成り立ちからディテールに至るまでの全体を理解し、無駄なものを限界点まで削り出してデザインしていく方法を採りました。そうやって構造を組み上げ、原寸でディテールまで考えていったのです。当時主流だったポストモダンとは真逆のことをしていたわけで、のちに、これが賞を取るとか、世間的に高い評価を得るとは思ってもいませんでしたが……。この〝削り出す〞作業を繰り返していくと、その延長線上に、本来建築が持つ強さが見えてくるのです。長い時間が流れ込むことで強くなる建築。僕の進む方向を決定づけた仕事でもあります。

次の転換点になったのは、高知県の「牧野富太郎記念館」でしょうか。建物を周囲の木々よりも低くし、環境に溶け込ませる建築、つまり、先行きの変化を自然環境に預けるという発想でつくったものです。「木造で」という条件があったから、風力との戦いがあり、これもかなり挑戦的な取り組みになりましたが、結果「何だ?これ」と思えるような面白いものになった。ある意味、「海の博物館」のようなつくり方をいったん壊したという意味においても、印象深いプロジェクトですね。

「本当にできるのか」。内藤の作品の多くは、その〝ギリギリ〞に挑戦するところから生まれている。先頃(2015年4月)開館となった「静岡県草薙総合運動場体育館」もまさしくそう。有機的で柔らかな局面の大屋根と、これを力強く支える杉の集成材が特徴だが、この規模を木材で支持する構造はほとんど前例がない。国内最難度と目された工事は、広く注目を集めた。

この体育館はRC、鉄骨、木材を個別に精度管理しながら3種類の構造体を組み合わせています。設計、施工共に、おそらく日本で最も難しい技術を駆使したものでしょうね。

静岡県の木材振興の意味合いから、木を使うことはコンペの与件で求められていたのですが、なかでも杉は、構造体として大架構に適しているとはいいがたく、非常にデリケートな素材です。しかし僕は、世界でも最先端の建築をつくるには木造しかないと常々考えていたので、挑戦したかった。20世紀の主要な素材として活躍したコンクリートと鉄骨は、すでにやり尽くされているし、もとより日本の木造技術は世界最高峰の水準にあるわけですから、何とかいけるだろうと。この工事は、かかわる誰にとっても片時も気を抜くことができない、ひどく緊張感の高い現場となりました。

そう、緊張感って大事で、新しいことに取り組む時、これが100%以上のエキルギーを与えてくれる。挑戦には必ず、大なり少なりリスクが伴いますが、建築家は当然のことながら、最後出来上がるものに対して責任を持たなければならない。「本当に実現するだろうか」「コストが収まるのだろうか」。そういった様々なリスクや問題から逃げず、乗り越えていくなかに緊張感が生まれるのです。例えば「海の博物館のような収蔵庫をつくってね」とオーダーされてやるのは、うんと楽な話。ひょっとしたら、持てるエキルギーの1割、2割でできるかもしれない。でも、それでは発想の回路が閉ざされ、新しい素材や技術に挑むことすらできません。僕自身が進化していくためにも、緊張感は常に必要なものだと思っているんですよ。

作家性を危険にさらしても、〝際〞で勝負するという美学

作家性を危険にさらしても、〝際〞で勝負するという美学

作家性を危険にさらしても、〝際〞で勝負するという美学

内藤が大切にしているのは、このチャレンジスピリットとともに、冒頭で触れた「人の居場所をつくる」という建築家としての使命だ。前述の「静岡県草薙総合運動場体育館」において、内藤は「木で包まれたような温かい空間が実現した」と、その手応えを得ている。本来、価値のある建築とは何か――内藤には変節なき信念がある。

内藤廣文中画像2

「静岡県草薙総合運動場体育館」には、つい先日も行ってきましたが、何といえばいいでしょう……オープニングは大相撲があって7000人ほど入りましたが、別に誰もいなくても、あるいは10人ほどの学生が練習していても、全然違和感がない。「誰が居てもOK」という、この幅がなかなかいい感じだと思っています。

今、「君はここに居ていいよ」と思える空間が少ないでしょう。そのことを思い知らされたのが3・11で、あそこでは具体的に場所も空間も奪われたわけです。ハードウエアはあっても、居ることができない。福島にもたびたび足を運んでいますが、あの地に立つと、「あなたはそこに居ちゃいけないんだよ」と、神様から言われているような気がするんです。

考えてみれば、被災地だけでなく、都市に住む我々も含めて、心地よい居場所は少ない。インターネットを介してバーチャルな空間が広がり、僕らの生きている世界がどんどん希薄になっているのも理由の一つでしょう。この問題は以前からあって、やはり建築家には、人が居ることが許されるような、「人間的な空間や場所を生み出し得る」ことを示す役割が課せられていると思うのです。そのために新しい技術を使い、経済や法律面をも含めて人の暮らしに奉仕する。これからの都市や建築の概念は、人間中心で考えるということに尽きます。

雨が降るから屋根をかける、風が吹くから壁をつくる。本来建築は、人間がそのなかで自由に守られるために存在するもので、シンプルな話です。建築家が過度な思い入れで付加価値をつける類のものではありません。

 内藤は、01年から10年間にわたり、東京大学で教鞭を執った。50歳の時に請われての話だが、実のところ、本人は「一回立ち止まって、仕事をしないで過ごそう」と考えていた時期だった。しかし「デザインをやっている人間が土木で建築を教える」という、東大の長い歴史のなかでも初となる試みに面白さを感じ、また挑戦する道を採ったのである。徹底してリアリティにこだわった数々の講義や演習は、内藤らしいユニークなものであった。

何でまたわざわざ、という話なんですけどね(笑)。役割としては、建築と都市工学と土木をつなぐ、あるいは風穴を空けるというもので、けっこう大きな挑戦をしたつもりです。学生に対しては、あっという間に変わる流行を教えてもしょうがないし、加えて、僕と学生がいいと思うものは当然違うから、コンセプト重視の教育も意味がない。だから、納まりや素材の物性など、確かで変わらないことだけを教えてきました。建築の根源的な力を学ぶことで、若い世代が社会を変えていくことを信じてのことです。

一度、東大新聞がインタビューに来て、学生へのメッセージを求められたんですね。「自分に能力がないと思うなら、人の歩いた道を行け。能力があると思うのなら、人が歩いたことのない未踏の道を行け」。そう答えました。東大生の多くは負けず嫌いだから、道を踏み外した学生がたくさん出たかもしれない(笑)。というのも、一番いい世の中というのは、ジャンルが何であれ、すごく能力のある人間が職にあぶれている状態だと思うんですよ。明治時代がそうだった。若い人たちが自由に考え、行動する。そんな生き生きとした時代です。

建築界は、40代でも若手といわれるような異様な社会ですよね。一言でいえば、若い世代は志が低い。建築ジャーナリズムや僕らの責任でもありますが、皆、何とかして成功したい、スターアーキテクトになりたい、という気持ちが強すぎるように思います。何か面白いものをつくらないといけないと思い込んでいる。でも建築家は、「価値のあるもの」をつくるべきで、ひょっとしたら、それは結果としてつまらないものになるかもしれない。つまり、自分の作家性を危険にさらすわけですが、そういう〝際〞で勝負している人が、どれほどいるでしょうか。建築家に限らず、僕がこれまでに出会った素晴らしいと思うアーティストたちは、皆、安全地帯をよしとせず、ギリギリの際を行っている。僕自身そうあり続けたいし、若い人たちには、大きいリスクをいとわないでチャレンジしてほしいとメッセージしたいですね。

PROFILE

内藤 廣

内藤 廣

1950年8月26日  横浜市保土ケ谷区生まれ
1974年3月     早稲田大学理工学部建築学科卒業
1976年3月     早稲田大学大学院修士課程修了
1976~78年      フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所(スペイン)
1979~81年       菊竹清訓建築設計事務所
1981年         内藤廣建築設計事務所設立
2001年        東京大学大学院工学系研究科社会基盤工学 助教授
2002~11年      東京大学大学院工学系研究科社会基盤学 教授
2007~09年     グッドデザイン賞 審査委員長
2010~11年    東京大学 副学長
2011年~ 東京大学 名誉教授

主な受賞

1993年 芸術選奨文部大臣新人賞、日本建築学会賞、吉田五十八賞
2000年 村野藤吾賞、IAA国際トリエンナーレグランプリ、 毎日芸術賞
2008年 ブルネル賞
2010年 公共建築賞・特別賞
ほか受賞多数

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