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環境と人間が共生できる豊かな世界を。これからはトレンドではなく、しっかりとした思想を発展させていくことが需要である

環境と人間が共生できる豊かな世界を。これからはトレンドではなく、しっかりとした思想を発展させていくことが需要である

團紀彦建築設計事務所

「建築家には、すべての仕事において環境を考慮する責任がある」。建築とランドスケープの一体化や、“共生”を核にした都市論を提唱し続けている團紀彦は、建築家以上に、都市計画家、環境計画家としての面持ちが強い。近年では、台湾で完成させた地形共生型建築「日月潭風景管理処」で、外国人として初めて台湾建築賞首賞を獲得し、国内では、日本橋室町東地区の再生にマスターアーキテクトとして新手法を示すなど、その活躍が注目されている。團は、建築を学び始めた頃から「建築=作品づくりに執着しない」異色の存在だった。長じても、それは変わらない。團が情熱を注ぐ先は、個の建築物を超えた、環境と人間が共存できるような真に豊かな都市創造にある。

環境と人間が共生できる豊かな世界を。これからはトレンドではなく、しっかりとした思想を発展させていくことが需要である

行く道を模索し、「建築」と定めたのは大学生終盤を迎えた頃

父親は高名な作曲家・團伊玖磨氏。当然のように、團も幼少期より音楽教育を受ける環境にあったが、自身はそれを望まず、もっぱら海や野山で遊び回っていたそうだ。生まれた神奈川県葉山町は自然に恵まれ、磯の香りに包まれて育った團は、今も海を楽しむ。漁師さながら、大魚相手に銛を振るうというから、もの柔らかな印象に相違して、團はなかなか野性派なのである。

両親共に音楽家で、僕も立派な先生についてピアノを習っていましたが、どうにもイヤでした。通った小学校の校歌が父の作で、いい曲だったけど、どうしても「やつの親父がつくった」となるし、音楽の先生も違う目で見る。子供心に反発があったのかもしれません。小学3年の時に出たピアノ発表会でのこと。真面目にやっていなかった僕は、なんと途中で演奏をスポッと忘れ、謝りながら壇上を降りたのですが、この時に「これで解放された」と思ったのです。以降は親もあきらめたようで、僕は好きな海や山で、いろんな生き物に触れる日々を過ごしていました。

勉強のほうは、高学年になるまで「オール3」。僕は聞き取りが苦手で、人に教わって耳から入る情報と頭の中が結びつかない。自分で本を読み直したり、繰り返し書かないと体に入ってこないから、勉強の仕方がわからなかったんです。方法を模索し、やったことが成績に表れるようになったのは中学以降。それでも、進学校である湘南高校に入った時には、「こんなに勉強できる人がいっぱいいるのか」と驚いた。

一貫して好きだったのは理数系で、なかでも数学は、人間が創出した最も美しいクリエーションだと思いました。しかも時に、人間の予測とはまったく違う世界が現れる。それが魅力で、大学に進学する頃には、数学か物理の道へと考えていました。振り返れば中・高時代は石の彫刻なんかつくっていたし、理数系と造形、つまり建築に近いのだけれど、この頃はまだ、まったく頭にありませんでした。

「数学者になりたい」と、東京大学に進学。

「数学者になりたい」と、東京大学に進学。しかし、秀才ひしめくなか、定員数も少ない数学や物理学科への道は超難関だった。團は専門課程に進む際、進路変更して建築学科を選ぶ。だが、滑り出しはよくなかった。授業に馴染めず、成績も芳しくない時期が続き、しばらくは模索状態だったという。

建築か、宇宙工学か、なかなか決心がつかず……最終的に建築を選んだのは、社会にリンクする仕事をしたかったのが一つ。それと多くの人と同じく、僕も丹下健三さんの代々木体育館に感動したから。造型の素晴らしさに加え、公共的な建築ってすごいなぁって。

教養学部の頃、今はもうありませんが、僕は数学的かつ造型的である図学という学問がとても好きだったので、それが建築につながると勘違い。建築の授業では、フランク・ロイ・ライトやコルヒビュジエの図面を渡されて、パースペクティブを描くよう求められる。導入として、そんな授業が多かった時代です。別の脳を使う感じだったし、失望したというか、まったくズレたものしか描けない。提出物は無視されるし、集団で著名な建築物の見学に出向くのも肌に合わないし。自分に向いていないんじゃないかと迷った時期もありました。周りは皆「建築が好きだ」という顔をしていたけれど、それってウソだろうと思ったりね(笑)。

相変わらず海に潜ったり、テニスやったりと、先が定まらない日々を送っていたある日、古本屋でコルビュジエの作品集を目にしたんです。スケッチなのですが、そこには建物だけでなく動物や人々の営みまで描かれている。こういう建築家がいるのかと驚きでした。ずっと悩んできた建築は、どん詰まりの部屋ではなく、一種の窓のようなもの。そこからの世界の見え方は、建築家それぞれによって違うのだと教えてくれた。この時、何だか勇気が湧いてきたのを覚えています。

大学院、米国留学を通じて出会った恩師。根源的な学びを得る

大学院、米国留学を通じて出会った恩師。根源的な学びを得る

團が初めて自信を得たのは、大学生最後に臨んだ設計課題だった。中庭がある大学の古い建物を改修するという課題に、思い切ってシンプルな案を提出したところ、講評委員の一人だった磯崎新氏から、いい評価を受けたのである。追って卒業設計賞も受賞し、團は歩を進めていく。

製図室の隅っこでくすぶっていた僕が、最後の課題で初めて褒めてもらえた。案に対し、磯崎さんが「こういうのができたら来てみたい」って。すると、講評の先生方のムードがガラリと変わり、「團君のはいいね」(笑)。緊張とうれしさのあまり、足が動かなくなったほどです。それを機に、大学院へ進み意匠系を学ぼうと決めました。

建築と都市の勉強をしたくて、当時、着任されたばかりの槇文彦先生の研究室へ。「さて、何をしようか」という立ち上げのタイミングだったから、とても面白かったですね。教授室に泊まり込んでコンペを一緒にやらせてもらったり、仲間と酒盛りしながら語り合ったり。都市に対する槇先生の考え方に触れたことは、間違いなく大きな学びでした。

最たるものが「代官山ヒルサイドテラス」。「どう設計されたんですか?」と聞いた時、「ジャズのアドリブ」という答えが返ってきた。起承転結を決めずに演奏を始めたら、自然と次の展開が出てくる感じだと。それが、ものすごく新鮮でした。例えば、ピラミッドはどこから見ても同じかたちで、強固な全体性を持っているけど、建物は本来、街それぞれの文脈に応じて、一つのなかにいくつもの考え方が宿ってしかるべきということです。そして都市は、非常に多様で多元的な道筋をたどって発展していく。その課程で建築家はどうかかわり、何をつくれるのか僕の根源を司る考え方となりました。槇先生は教育者として厳しく、僕が院生の分際で実際の仕事をした時などは、たしなめ、プロフェッショナルの責任の重さを教えてくださった。当時はただ怖くて、今になって「ありがたい」とわかる話だけど(笑)。ただアカデミックな研究室とは違い、寛容に設計を手伝わせてくれるなど、僕は本当に勉強の機会に恵まれました。

「一度は違う文化圏で学びたい」と考えていた團は、その後、米国・イェール大学大学院に留学。

「一度は違う文化圏で学びたい」と考えていた團は、その後、米国・イェール大学大学院に留学。2年間にわたって4つの設計スタジオを経験するなか團がことさら影響を受けたのはマリオ・ガンデルゾナス氏である。建築家であり、言語学にも通暁する氏の存在は、團にとって大きなものとなった。

言語として見た場合、モダニズム建築は100年にもなっていない。都市というものを描く言語としては未熟である――それが、マリオ・ガンデルゾナスの自論でした。古典主義時代の建築言語には、きちんとした文法や文脈があり、そこに則ることで街並みができてきた。だからパリは、古い地区に近代建築を絶対につくらなかった。日本の伝統的な町屋などにも通じるものがあります。ところが現代建築は、19世紀までの伝統を全部壊しちゃった。形式からして何でもありで、結果、現代都市はおもちゃ箱をひっくり返したような今日の状況になってしまった。

マリオ・ガンデルゾナスの授業は少々極端で、朝から晩までパラディオのコピーばかり。「言語や文法を知らずに詩がつくれるのか? 君らの創造力は5%、あとは語学の習得である」という調子でプブライドを傷つけられスタジオを辞めていくアメリカ人学生も多かったけれど、僕は、一理あると思っていました。単に影響を受けたというより、帰国後につくった建物がほとんどシンメトリーになっていることからすると、僕の体に“しみ込んだ”という感じですね。新古典主義は恐ろしい言語だと思いました。

帰国したのは1984年、日本経済がバブルを迎える前夜です。この頃アメリカに留学した先輩たちの多くは有名な先生に師事したあと、それを手土産に道筋をつけていくというパターンだったのですが、僕は、それが植民地主義的に思えてイヤだった。時代からしても、これからは日本だ。ダイレクトに自分で活動したいと思い、帰国後すぐに事務所を設立したんです。

公共建築を通じて、建築と環境の関係性を改善する活動へ

公共建築を通じて、建築と環境の関係性を改善する活動へ

團は、同世代の建築家のなかでトップを切るようにして、早くから公共建築を手がけてきた。皮切りとなったのは、80年代半ばに取り組んだ「新島グラスアートセンター」である。「せっかくきれいな島なのだから、大勢の人に来てもらいたい」と願って完成させた同施設は、30年近く経った今も“生きた公共施設”として存在する。

友人から紹介された仕事で、まずは新島に行き、村長さんに会うところからのスタートでした。島の特産物に抗火石と呼ばれる希少な石材があるのですが、これが有名な新島ガラスの原料。初めは工業ガラスの研究を目的にした研究施設でしたが、色のついたガラスで何かできないだろうかと。緑に発色する天然ガラスはとても美しく、いわばグラスアートが目の前にあるのだから、それを生かしたいと考えたのです。

そんなやりとりが、島特有の資源や芸術を発信する工房設立へと話が展開した事例です。現在も、通年でガラス教室が開講され、海外から作家を招聘してワークショップを運営したりと、工房長の野田収さんと野田由美子さんがいい活動をしています。こんなふうに、自分がつくった建物が長く機能しているのは、本当にうれしいです。

今では考えられませんが、新島の仕事は、公共建築の実績がない僕の提案を受け入れてくれた随意契約。この時代は、全般的に「若い人たちにチャンスを与える」というムードがあったように思いますね。昨今は閉塞的で思うようにいかない場面も多々あるけれど、どんな仕事でも施主と心から向き合い、やりとりを重ねることは非常に大切です。「こうしたらもっとよくなる」という対話。様々な制約を課せられたとしても、それを受け止めて「何が可能か」を考え抜く。そうすれば、必ずいい結果を出せるものです。

「印象に強く残る仕事は?」という問いに、團はこう回答した。

「印象に強く残る仕事は?」という問いに、團はこう回答した。「土木と建築の融合がうまくいったという点で、京都の日吉ダム周辺整備。逆に、最もイヤな思い出は愛知万博です」。周知のとおり、團は2005年に開催された愛知万博を準備した主要メンバーの一人だった。團らが作成した環境重視型の案によって日本誘致は成功したが、政府は、直後にその原案を破棄。従前からの不動産開発型の計画に置き換える決定をした。“イヤな思い出”というのは、その時の戦いを指している。

我々の案は誘致を勝ち取るためのポスターであって、それが叶えば、当初の平場構成案に戻すという話です。万博を足がかりに山全体を開発、宅地化するという……。それでは世界に対して嘘をついたことになるし、何も考えず山にメスを入れるような平場構成を容認するなど、断じて許せないと激しく批判しました。ほぼ孤立状態でしたが、声を挙げたことで博覧会国際事務局や市民の方々も動いてくれて、結果、主会場だった「海上の森」の自然破壊だけは食い止めることができた。一矢は報いたけれど、僕はプロジェクトから外され、無益ともいえる国との対立が長く続きました。そして、建築と土木の対立をも思い知った一件です。

一方、日吉ダムは、愛知万博より前に手がけたのですが、その建築と土木がいいコラボをできた仕事。この狭い国で、ダムや高速道路などといった構造物と建築物が、どう共存できるかを追求しながら。両者のシステムはまったく違うし、大きな構造物になると建築と土木は共働せずにバラバラに進めるのが通常です。つまり隣接していても無関連につくられてしまう。この構図は、あまりに長く続いている。

しかし、土地と建物が一体となって初めて“環境になるのだから、僕は土木やエンジニアリングの部分にも踏み込んでいきました。当初の依頼は、ダム記念館の設計だけでしたが、樋口忠彦さんという建築と土木をつなごうとする立派な方がいて、「こうしたほうがいいよね」と対話を重ねるうち、ほかの施設や領域がどんどん広がっていった。まさに建築と土木の共働で、日吉ダムを含む全体景観に対するコンセプトの形成ができたわけです。

愛知万博のように戦闘状態になるのはよくないですが、やっぱり建築家は環境を考えるフロントに立っている。スケールを問わず、どんな仕事でも環境を考慮する責任はある。僕は、常にそれを貫きたいと思っています。

国際舞台にも立ち、“共生”を核にした都市づくりを目指す

国際舞台にも立ち、“共生”を核にした都市づくりを目指す

團が国際的に高い評価を受けた代表作は、やはり、台湾の「日月潭風景管理処」と「桃園国際空港第一ターミナル」である。いずれも、国際コンペで一等を獲得したものだ。現地で建設にまつわる諸問題に直面しながらも、團は立て続けに2つのプロジェクトを、賞賛に輝く完成にまで導いた。

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本取材は、港区三田の「團紀彦建築設計事務所」で行われた。現在のスタッフ数は7名。少数精鋭で様々な話題のプロジェクトに挑み続けている

一般公開の国際コンペでしたが、実はそれほど有名ではなく、初めはこのコンペの存在を僕も知らなかったんですよ。これも縁なのでしょう。台湾の雑誌編集者と、東京で開かれたレセプションパーティでたまたま知り合ったのです。彼はコンペの準備に携わっており、その一環で訪日していたのですが、波長が合ったのか、「興味があったら参加してください」と声をかけてくれた。節目、節目で、僕はこうやって誰かに拾ってもらえるというか、不思議な縁で今日までつながっている気がします。

台北の国際空港は、日月潭の仕事で台湾に行き来する過程で見ていて、「これは、ちょっとひどい。新しくしたいという気持ちはわかるな」と思っていたんです。だから「こうすればいい」と現地ですぐに考えついた。小さな所帯の事務所ですからね、作業負担が大きくなるのはわかりつつ、やりたかったのでコンペに参加しました。

結果的に、新床を一枚もつくらず、建て替えた場合の費用と比べると約15分の1の予算で改修できた。年間の利用者数を3倍の1500万人まで利用可能にし、日本の耐震構造も入れて。過去、同規模の成田空港改修時には1500億円ほど投入されましたが、桃園国際空港は日本円で約100億円。途中、現地の官僚制度との軋轢もあったけど、地球資源を浪費せず、予算をかけず結果を出せた好例だと思います。今では台湾に行くと、僕はそこそこ有名人になっている……みたい(笑)。

現在は、中国からのオファーも受ける。

現在は、中国からのオファーも受ける。古来、日本との仏教交流が盛んだったゆかりのある寺院や、あるいは「香港の隣に、東京と同じくらいの都市をつくりたい」という壮大な話まである。日中関係最悪の状況のなかで、「どうなるかわからないけど」と前置きしたうえで、團は、国際交流の架け橋になれればと願っている。

中国南部に新しい都市をつくるという話です。日本とのコラボで進める計画ですが、日本の街づくりは国際的にも注目されています。東京は、古く江戸の頃から大都市だったわで、今も東京圏3800万人で世界最大。これだけ高密度ながらインフラが整い、クリーンだし、様々な利害の衝突を抱えながらも日本人特有のやり方でうまく機能している、ある意味すごい共生都市です。街の美観として見るとまだまだで、内側にいると「もっとよくしたい」と思うけれど、中国からすると「取り入れたい」と。外交問題で妙な話ではありますが、日本の技術が期待されているのは間違いありません。

都市計画のみならず建築計画や環境計画においても、やはり共生の思想がすごく重要だと思っています。メタボリストグループといわれた黒川紀章さんや槇さんが発信されてきた重要なテーマですが、多様なものが世の中に共存することで、都市や世界はもっと豊かになるという考えです。僕は、自分なりにそれを進化させていきたい。人間が生きている場所は、それぞれに固有の文化やライフスタイル、秩序を持っていて、その隣り合わせとなる境界には様々な衝突が発生します。共生とは、その負のエネルギーを分離・同化・調停といった理念によって、1+1=3になるような豊かな全体像をつくるエネルギーに変えることです。

昨今、共生という言葉が、政治的には悲しい理想みたいになっている。世界では民族主義が隆盛を極め、異質な要素を排除する非寛容の動きが加速されているから。ダイバーシティを謳歌していた、あのユーロコミュニティでも、ナショナリズムが進んでいるわけでしょ。僕ら建築家には、政治をどうこうする力はないけれど、建築や都市計画を通じて、次なる理想のモデルを追求していくことはできる。この理念を追求する意義は、非常に大きいと考えています。日本の建築家は、若い世代も含め、一つのブランドを確立することを最終目的にしているところがあります。それはそれで間違いではないけれど、人間がブランド化すると、自ら進歩を望まなくなるし、それは考えるアーキテクトを放棄することにつながる。これからはトレンドではなく、しっかりした考え方を発展させていくことが重要ではないでしょうか。

PROFILE

團 紀彦

團 紀彦
Norihiko Dan

1956年2月11日

神奈川県葉山町生まれ

1978年3月

東京大学工学部建築学科卒業

1980年3月

東京大学大学院建築学修士課程修了

ARCH STUDIO設立

1984年6月

米国イェール大学大学院建築学部修了

1986年12月

團・青島建築設計事務所設立

1994年12月

團紀彦建築設計事務所に名称を変更

家族構成=妻・娘2人

 

主な受賞

1987年

第1回吉岡賞受賞/1987年度SDレビュー入選

1995年

1995年新日本建築家協会JIA新人賞受賞

1999年

1999年日本建築学会賞業績賞受賞

2003年

2002年度土木学会デザイン賞優秀賞受賞

2005年

2005年度日本建築仕上学会賞作品賞受賞

IOC/IAKS AWARD 2005, Silver

2008年

ARCASIA AWARDS 2007-2008ゴールドメダル

2011年

台湾建築賞受賞

2014年

台湾建築賞、日本都市計画学会「計画設計賞」受賞

ほか受賞多数

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