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“べき論”ではなく、「何をしたいのか」「何が楽しいか」を大事にする。<br/>そうすれば、これまでの建築家がやってこなかった新しいジャンルが生まれてくると思う

“べき論”ではなく、「何をしたいのか」「何が楽しいか」を大事にする。
そうすれば、これまでの建築家がやってこなかった新しいジャンルが生まれてくると思う

青木 淳

個人住宅をはじめ、「潟博物館」「青森県立美術館」「杉並区大宮前体育館」に代表されるような公共建築、そして一連のルイ・ヴィトンの商業施設、青木淳が手がける作品は多岐にわたる。いずれも印象に強い、チャレンジングなものばかりだ。湛える表情は違えど、一貫しているのは「人と空間が対等になれる感じ」である。造形・機能に対する追求よりも、青木が心を砕いているのは、人に行為や感覚を強要しない空間づくりだ。何かしらを伝えようという〝押しつけ〞がないから、人々はそこにある空間を自分のものとして感じることができる。青木が提起し続けているのは、そんな包容力を携えた豊かな建築である。

公共建築や商業施設。野心的な作品で活動領域を広げていく

一方、厳しい景気下にありながらも、青木は早くに公共建築を手がける機会を得て、野心的な作品をつくり上げてきた。ここで該当するのは、95年に建て替えられた熊本県の「馬見原橋」、追って97年に竣工した新潟県の「遊水館」「潟博物館」で、いずれも高い評価を獲得している。これら初期作品には、すでに「建物を単なるオブジェ、閉じた空間にはしない」という青木の流儀がしっかりと映し出されている。

馬見原橋はくまもとアートポリスの仕事で、当時コミッショナーを務めていた磯崎さんから声がかかったのです。磯崎さんは弟子に仕事を回さない主義なので驚いたんですけど、聞けば、すでに予備設計は固まっていて、時間もないから装飾を加える程度の話だと。つまり、ほかの建築家に頼めないから僕にお鉢が回ってきたわけです(笑)

だからといって、そのままの話ではつまらないでしょう。単なるモニュメント、あるいは交通のためだけの場ではなく、僕は住んでいる人たちの心や生活に属するものをつくりたかった。それが、車道と歩道を上下に分けたデザインにつながっています。完成後ほどなくして、町民の方々が橋で思い思いに過ごすようになったり、橋と川を主役にした行事が企画されたりと、人が留まれる場になったことは嬉しいですね。僕にとっても原点となるような大きな経験となりました。

新潟県とのお付き合いは、もとは香山さんがつないでくださったものです。入り口としては、新潟国道事務所の地下空間を考える委員会を手伝うところから。設計ではなく単に絵を描く仕事だったのですが、納得のいかないものばかり求められるものだから、頼まれもしないのに「こういうほうがいい」と提案していました。ある時など、委員会でイヤイヤつくった模型を、会議直前に自分の模型に差し替えるという乱暴なことも(笑)。終わってからとっちめられましたよ。でも「問題はあったけれど面白い」と、認めてくださる人たちがいたのです。

結果ここから、福島潟という新潟県最大の自然公園内につくったプール・遊水館や、潟博物館の仕事へとつながっています。わからないものですね。いろんな意味で運が良かったのだと思います。僕の世代で独立早々から公共建築をやった人は少ないので、ちょっと珍しいケースかもしれません。

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潟博物館が終わって間もなく、ルイ・ヴィトン名古屋ビルのコンペがあり、青木の一連の仕事は、ここから始まっている。以降、松屋銀座店、表参道ビル、ニューヨーク、香港店など、ルイ・ヴィトンの仕事を長く手がけているが、その多くはコンペであり、勝ち取ってきた仕事である。

そもそもヴィトンのお店に入ったこともなかったし、コマーシャルは得意じゃないから、それまでとは違う世界での仕事です。僕の建築のつくり方は、まず内部機能を考え、それをどうやって建築にしていくかを考え、その結果として外観が決まるというものでした。でも店舗は、建物としての構成を持っているとはいえ外観が支配的なプロジェクトです。僕には初めてのことで戸惑ったし、その意味においてもチャレンジングでしたね。

表面だけのデザインであっても、それがヴォリュームとして感じられるものをつくりたいと考えました。ヴィトン的な空気の塊が出現したようなイメージ。素材に対して意識的になったのもこの仕事からで、ガラスのモアレの外壁は、名古屋店で初めて試みた手法です。これは錯視に興味があったわけじゃなく、素材としての表現を失った非物質的な様相が強い素材になると考え、行き着いた結果です。

その後の表参道店では、ヴォリュームを見せることはやめて、ヴォリュームの体験として建物をつくることに徹底しようと。それで、箱をヴィトンの商品であるトランクに見立てて積み重ね、一つずつ特徴を持った様々な空間があるように見える建物を考えたのです。当然ですが、その土地ごとに周辺環境は違うし、同じことはやりたくないという思いもあるから、本当にいつも模索しながらですよ。基本的にブランドは、同じ人間がやるよりいろんな個性が混じったほうがいいと思うのですが、ありがたいことにもう20年以上のお付き合いです。コマーシャルに興味のなかった僕が続けてこられたのは、ヴィトンが建築を面白がってくれ、大事にしてくれるからだと思います。

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一貫しているのは、安定や既成を排したチャレンジ精神

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PROFILE

青木 淳

青木 淳

1956年10月22日 横浜市中区生まれ
1980年3月 東京大学工学部建築学科卒業
1982年3月 東京大学大学院修士課程修了
9月 磯崎新アトリエ入所
1991年9月 青木淳建築計画事務所設立

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