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時流に乗るのではなく、 自分の視点で「何が今の課題か」を 見つけて、勝負する。 その姿勢が一番大切だと思う

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深尾 精一

 キャリアの大半を大学人として過ごした深尾精一は、自らを「建築家というより、設計が好きな研究者」とする。
東京都立大学(当時)に着任したのは1977年。以降、35年以上にわたって教育・研究に尽力してきた。深尾にとって「圧倒的な存在」である内田祥哉氏の研究室に在籍して以来、一貫して建築構法に関する研究に取り組み、その広く、深い活動は、建築業界に多大な貢献をもたらした。主な作品には「武蔵大学科学情報センター」「実験集合住宅NEXT21」、自邸の増築「繁柱の家」などがあり、これらはいずれも「今、何が必要とされているか」を世に問う意欲的なものだ。深尾の歩みは、建築の〝奥深さ〞とともにある。

ものづくりが好きな理系少年。建築に目が向いたのは大学生の時

  深尾は現在、生まれた土地に建つ家に住んでいる。詳細は後述するが、古希を迎えるまでに幾度の変容を遂げたここに、住まいの原風景があるという。もとは、昭和初期の東京・杉並に建てられた平屋住宅で、深尾は小学校半ば頃までこの家で暮らした。

 八畳間で祖父母に挟まれて寝ていたこと、座敷を這いずり回っていたこと、そして、縁側を介して庭とつながっていた空間……日本家屋で育ったこれらの記憶が僕の原点です。そんな暮らしが変わったのは、小学校4年の時。エンジニアだった父親が静岡に転勤となり、家族で引っ越したのですが、東京っ子の僕にはまったく馴染めなかった。

転校先は田舎の小学校で、帰りは富士山に向かって上り坂を40分ほど歩かなきゃならないし、社宅に戻っても一緒に遊ぶ子が誰もいないしで、よく泣いていましたねぇ。この状態はよくないと親が判断し、結局、父親は単身で残ることにして、僕らは1年ほどで東京に戻ったんです。この時、杉並の家は人に貸していたから、移り住んだのは麹町辺りの小さな借家。今度は都会のど真ん中です(笑)。

それで麹町中学校、日比谷高校へと進学したので、転居によって進路が定まったようなものです。ずっとものづくりが大好きで、技術・家庭科は特意中の得意。とりわけ、高校生の頃から夢中になったのが鉄道模型の製作です。それも模型会社が販売するキットではなく、自分で図面を一から起こして。どういうつくり方をしようか、それを考えるのが好きだったんです。 日比谷高校は本当に自由な校風で、カリキュラムにも独自性があり、学ぶにはとてもいい環境でした。当時から一週おきに土曜日が休みだったから、皆で映画を観に行ったりね。もちろん、受験勉強はしたけれど、ザ・受験校というムードは全然なく、「楽しく過ごした」という記憶が強いです。

 中学3年の時にはアマチュア無線技師の資格を取得するなど、一貫して理系を得意分野としてきた深尾は、東京大学理Ⅰに進学。この時点では、父親と同じく「将来はエンジニア」「精密機械か電気か」――そう考えていた。そのなか、深尾は一つの授業をきっかけに、建築を志向するようになる。

 大学紛争に入ったのは、わりにすぐのことでした。授業が完全になくなる前、図学の授業で生田勉教授の講義を受ける機会があったのですが、その際、先生は90分かけて建築の素晴らしさを熱弁されたんですよ。折しも、あまりに難しい数学の世界に迷いを感じていたこともあり、先生の話を聞くうちに、「建築というのが面白いかもしれない」と思うようになったんです。

紛争で授業がなかった時期は、午前中にクラス討論するだけで時間があるから、「芸術的な建築にはフランス語が必要だ」と勝手に思い込み(笑)、アテネ・フランセに通ったりもしていました。有名な建築物に憧れてこの世界に入ったという人は多いけれど、僕の場合は、いわゆる建築少年ではなかったわけです。件の講義がきっかけではありましたが、今となれば、建築を選んで本当によかったと思う。

ものづくりに関しては、変わらず造ることも考えることも大好きで、そういうなかで建築設計教育を受けると、まぁいい成績は取れるんですよ。先生によって評価は全然違ったけれど、特に内田祥哉先生と吉武泰水先生は、僕の設計を高く評価してくださった。そして、卒論の際に選んだのが内田研究室です。直感的な選択でしたが、結果的には、僕のものの考え方が内田先生の下で勉強するのに非常にフィットしました。人生を通じての恩師に出会えたのは、本当に幸せなことです。

ちなみに卒業設計は、当時、僕としては最もダメな建築と思えた学校建築を題材にして、小学校4年まで通った近所の沓掛小学校の改築計画としました。これには、吉武先生に教わった建築計画的な視点も盛り込みましたが、様々な形状のプレキャストコンクリートの構法を開発提案した点に思い入れがあります。やっぱり僕は、「つくり方」をテーマにしたかったんでしょうね。

本取材は、深尾氏が設計した自宅の増築スペース「繁柱の家」(東京都杉並区)で行われた。
四寸角のヒノキの柱が、緩やかなカーブを描いて部屋奥の開口部まで続く。
自然光とヒノキとの調和が、落ち着いた空間美を醸成する
【次のページ】
研究者・教育者の道へ。研究を建築設計にも適用し、深化させていく

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PROFILE

深尾 成一

深尾 成一
Seiichi Fukao

1949年3月27日 東京都杉並区生まれ
1971年6月   東京大学工学部建築学科卒業
1976年3月   東京大学大学院工学系研究科 建築学専攻博士課程修了(工学博士)
1976年4月   早川正夫建築設計事務所所員
1977年10月  東京都立大学工学部 建築工学科助教授
1995年4月  東京都立大学工学部 建築学科教授
2005年4月  首都大学東京都市環境学部教授(大学改組による)
2013年3月  首都大学東京 定年退職 名誉教授

家族構成=妻、娘1人

その他活動

文化庁文化審議会文化財分科会専門委員(2002年~11年)
日本学術会議連携会員(2006年~11年)
日本建築学会副会長(2008年~09年)
中央建築士審査会会長(2010年~20年)
国土交通省社会資本整備審議会建築分科会会長(2015年~23年)

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