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21世紀の建築はどうあるべきか。地球全体に、どう寄与していくか。僕らの世代は、その道筋をつけていく責務があると思う

21世紀の建築はどうあるべきか。地球全体に、どう寄与していくか。僕らの世代は、その道筋をつけていく責務があると思う

仙田満

26歳で独立した時、仙田満(せんだ・みつる)は自分の名を冠した事務所ではなく、「環境デザイン研究所」という屋号で旗揚げをした。建築だけでなく都市、造園、インテリア、展示、遊具、プロダクトデザインなど、広い領域で設計に携わっていく――そう決めていたからだ。以来50年近く、仙田は“環境デザイナー”として、才を発揮した数多の作品を発表、その世界を切り開いてきた。なかでも、成育環境のデザインという分野では第一人者である。子どもが元気に育つ環境づくりをライフワークとしながら、日本建築学会や日本建築家協会の会長職も務め、業界を俯瞰した社会活動にも尽力。「今の社会システムを変えなければ、日本の環境デザインは育たない」。穏やかな風情ながらも、仙田の胸には次代への熱き思いが溢れている。

21世紀の建築はどうあるべきか。地球全体に、どう寄与していくか。僕らの世代は、その道筋をつけていく責務があると思う

「文理の中間領域」を求めて。大学生の時、建築に目を向ける

仙田が生まれ育った横浜市保土ケ谷区には斜面緑地が多く、当時、あちこちに掘られていた防空壕が、子どもたちの格好のあそび場だった。「今の子どもに比べると、日々のすべてがあそびにつながっていた時代」。わんぱくだった兄について回る一方で、仙田がとりわけ夢中になったのは、絵を描いたり、工作することだった。

少年雑誌に付録としてついていた工作とか理科の実験キットにワクワクし、片っ端からつくっていました。絵もね、小学校の先生に「これ何?」と言われるような具合だったけれど(笑)、描くのが楽しくて。手作業が好きなのは、造船所で工員をしていた親父の影響かもしれません。近くの弘明寺というまちに横浜国大の工学部があったのですが、親父自身興味があったようで、そこの大学祭に毎年連れていってくれたのです。今のようなお祭り感覚ではなく、大学でやっている様々な研究を市民に公開する場で、白衣を着た大学生たちがカッコよかったし、僕も科学技術に興味を持つようになっていました。

中学生の頃は基本的に理系だったし、僕は工業高校に進んで、卒業したら働くつもりだったのです。そもそも周囲には、大卒の人なんていないような地域ですよ。ところがある時、中学の担任が、お袋に「仙田君を工業高校に行かせるのはもったいない」と言ったそうで。それで話が変わり、僕は、湘南高校に進むことになったのです。

中学校ではそれなりによかった成績が、進学校ですからね、入ってみれば500人中350番くらいの成績。それにショックを受けて猛烈に勉強し、シングルまで順位を上げていったというガリ勉の3年間でした。ただ、この頃は映画や文学にも惹かれ、試験が終わるたび映画館に足を運んでいました。できることなら映画監督になりたい……そんな夢を抱いていた頃です。

遡れば、この時分から仙田には“境目”というものがない。文系も理系もなく、興味を持った分野を広く学んでいた仙田は、進学先として東京工業大学を選ぶ。当時、同大学が先んじて設置していた経営工学コースに「文理の中間領域」と「新しさ」を感じたからである。そして、ここで初めて、仙田は建築に目を向けるようになる。

僕は、求めていた文理の中間領域に「建築」があることに気づいたのです

入学した年の全学祭の時、たまたま建築科の先輩学生に「研究発表を手伝ってくれ」と声をかけられたのです。聞けば、人間疎外と科学技術というようなテーマで、面白そうだった。これ、すごかったんですよ。自分の考えを映像や音楽を用いてスライドにまとめ、表現する。今でいうマルチ・プレゼンテーションで、ほかの発表手法とは全然違ったのです。当時はまだ大きな模造紙に手描きという形式が主流でした。こんなかたちがあるのかとインパクトを受けたし、建築を学ぶ先輩の影響で、僕は、求めていた文理の中間領域に「建築」があることに気づいたのです。

それで建築科に進み、谷口吉郎研究室に入りました。谷口先生は、島崎藤村の出生地である岐阜県の馬籠に「藤村記念堂」をつくった人で、文学者との交流も持つ異色の建築家。そして、いち早く「環境の意匠」という言葉を使い、日本の環境というものを概念化した。大きな影響を受けましたね。

学生時代の研究テーマは「歴史的空間論」。特に、日本の城の研究です。城の様式というのは、1500年代後半に一定の完成をみるのですが、鉄砲50伝来からわずか50年ほどで、石垣とか木造高層建築とか、その様式が確立されているのです。なぜ、そんな短期間でできたのか。僕の結論としては、コラボレーション。かつての宮大工とは違った新しい技術人、すなわち下克上した田舎大工、渡来した南蛮人、そして例えば千利休のような新たな都市文化人、これら多様な能力を持つ人々のコラボレーションによって、「城」というシステムができたと考えたのです。「多様なデザイナーの協働が新しい時代の様式をつくる。」この結論は、僕の環境デザインの原点ともいうべきものです。

「環境デザイナー」としての礎を築く。そして独立へ

「環境デザイナー」としての礎を築く。そして独立へ

大学卒業後、「菊竹清訓建築設計事務所」に入所。実のところ、意中だったアトリエの採用試験に落ち、いくつか当たった先の一つだったが、仙田は、同事務所に在籍した4年間を「僕の大学院時代だった」と表現する。新人だろうとかまわず仕事を任せる菊竹氏のやり方に鍛えられ、厳しかったが、仙田はここで大きな学びを得たのである。

僕は怒られやすいのか、とにかく菊竹さんからは怒鳴られてばかり。いつでも辞められるようにと、通勤定期ではなく毎日切符を買って通っていたくらいですから(笑)。でも、叱られる度に自分でメモしてきたことはすごく勉強になったし、何より、面白い仕事と経験を十二分にさせてもらいました。

最初にやった仕事は、「国際建築展」という日本の建築を海外に紹介する展覧会です。入所1年生の僕がすべてのワーキングを任され、有名な写真家やグラフィックデザイナー、翻訳家とのやり取りから、お金の管理まで全部。写真家に依頼する際、報酬の相場を知らずに交渉して、「二度と来るな」と言われたりしながらも(笑)、どういう人たちと、どういう時間内、予算内で、プロジェクトを仕上げていくか――建築の仕事でとても大事なことを、早くから学ぶことができました。

そして2年目で手がけたのが「こどもの国」。僕が、子どものあそび環境の領域を柱にするようになった源の仕事です。自然型の児童遊園地で、僕は林間学校をつくったのですが、この時児童遊園をデザインした彫刻家のイサムノグチさんや、造園家の伴典次郎さんに出会ったことは貴重でした。建築以外の魅力的な世界の広がりを教えてもらったことで、やはり建築というものは、いろんな領域と一緒になって環境全体を考えていくべきなんだと、気づくことができた。大学生の時に、その重要性を感じていたコラボレーションを実践し、異分野と協働する楽しさを知ったのです。4年間ではあったけれど、僕は、これらの仕事を経験させてもらったおかげで、自分の“芯”のようなものができたと思っています。

仙田は「環境デザイン研究所」を立ち上げる

1968年、仙田は「環境デザイン研究所」を立ち上げる。その名に込めた思いは冒頭に触れたが、さらには、研究所の機能を有すること、そしてコラボレーションができる事務所であること。明確なスタンスに立ってのスタートだった。住宅の仕事を皮切りに、「こどもの国」を担当した経験から造園コンサルタントとしても活動するなど、仙田は多彩な領域に挑んでいく。

僕のなかで存在が大きいのは、30歳の頃につくった「野中保育園」ですね。のちに僕が組み立てた、子どもがあそびやすい空間の構造“遊環構造”という理論を先取りした建築物です。バルコニーなどは子どものスケールになっていて、各保育室の屋根裏部屋はダーッとつながっているとか、8000m²の泥んこ場があるとか。自由教育を理想とし、大地保育を創始した塩川豊子先生とディスカッションを重ね、思いどおりにつくれた保育園です。40年以上経った今も見学者が多く訪れ、保育業界ではけっこう有名だと思いますよ。

子どもたちのあそび環境について、自主研究を始めたのもこの頃です。菊竹事務所時代、「こどもの国」に携わったことで、あそび環境、つまり空間、時間、集団、方法という4つの要素がすごく変わってきたと感じていたので、その変化を明らかにしたいと思っていたのです。それが、横浜で行った「こどものあそび環境の研究」で、大会の論文として建築学会に発表しました。

実はこの研究が、事務所の危機を救ってくれたんですよ。73年のオイルショック当時のこと。「こどもの国」による縁で、厚生省などからいろんな声がかりがあったのですが、このオイルショックで総需要抑制策が採られ、プロジェクトが全部ストップになった。公共事業のほとんどが止まった時期です。そんな時、たまたま新聞で見つけたのがトヨタ財団の研究助成プログラムで、それに応募したんです。建築学会に出した一編の論文と、研究計画をセットにして。そうしたら運よく通って、3年間で780万円の助成を受けることができた。今だと、10倍くらいの金額になるでしょうか。みんなで研究しながら、事務所の危機を乗り切ったというわけです。

指導者、公職者として。社会活動にも尽力する日々

指導者、公職者として。社会活動にも尽力する日々

この時、トヨタ財団の研究助成を受けたのは20団体。うち、仙田の事務所は唯一の民間研究団体で、その独創的な研究は注目された。そして母校・東工大の教授からは「これを学位論文にしなさい」と推された。それから、事務所の仕事を抱えながら学位論文に臨み、82年、仙田は東工大より工学博士を授与された。

商業施設の環境デザインを手がけるようになり、仕事領域も広がってけっこう忙しかった。それに、僕は大学院には行っていないので、論文の書き方なんてよくわからないから、院卒の所員に「これでいいかな」と聞いたりしながらね(笑)。大来佐武郎さんという著名なエコノミストが、「この研究は面白い」と引っ張ってくれたのが大きな助けになりました。自己流で何とか学位論文を仕上げたのは42歳の時。研究を始めて10年近くかかりました。

それまで日大で10年、早大で3年、非常勤講師として働いてきましたが、常勤として声がかかるようになり、琉球大学や名古屋工業大学などでも教えてきました。そして巡って92年、東工大の建築学科に戻ったというわけです。それなりに時間は取られますし、琉球大学の頃は、3年間毎週通いで、給料の大半は飛行機代に消えていました(笑)。僕は人がいいのか、頼まれれば何でも引き受けちゃう。でも、それが「考える」きっかけになるし、研究テーマを決めて学生たちと取り組むのが、とても好きなんですよ。僕自身、大学で教えることを通じて、子どもの領域だけでなく、環境デザインという研究分野を様々広げることができたのは、とてもよかったと思っています。

僕は、研究と設計は同じだと考えていて、仮説を持ってそれを証明していくという両輪の関係なのです。学生や若い建築家にいつも言うのは、「研究に基づくデザイン」を大切にしてほしいということ。その両方の分野に挑戦してほしいと願っています。

仙田は様々な公職にも就くようになった

他方、仙田は様々な公職にも就くようになった。2001年、日本建築学会会長に就任し、06年からは日本建築家協会の会長も務めた。さらに、学際的な研究を行う「こども環境学会」や、日本学術会議の活動を通じて政府に対する提言も積極的に行うなど、仙田は広く、社会システムの劣化、歪みに危機感を抱き、戦い続けている。

ずっと環境デザインをやってきて考え至ったのは、そこを取り巻く仕組みや法律を変えないと、日本の環境デザインは育たない、美しいまちはつくられないということ。これは、日本の社会システムの問題です。

教育ひとつを取っても、変革すべき側面は多々あるわけです。例えば、日本の大学では学位を取るという“通過点”が必要で、アメリカのように専門家や実務家が積極的に教えていくシステムになっていないから、プロフェッショナルな学生を世に送り出すことが難しくなっているのです。

また、知的生産行為を阻む設計入札の問題。会計法に基づいた、公共工事の設計者をまずはお金で選ばなければならないという原則が、実に明治時代から続いている。それは不幸です。国の公共建設はほとんどプロポーザルになっていますが、自治体はまだまだ入札が多いのが現実です。東日本大震災の復興にしても、時間がない、人がいないということで、一番簡単な設計入札が蔓延しつつある。現地の人々や、注目している世界に向けて優れた復興を目指すべきなのに……。

次の世代に引き継いでいく時に、大きな障壁となる仕組みや法律などを変えていくためには、協会や学会などで上に立たないと発言力がない。そんな思いもあって会長職を引き受け、様々な社会活動を続けてきました。たまに「仙田さんは会長が好きですね」なんて言われて、がっかりするんだけど(笑)、僕らの世代は、21世紀の建築はどうあるべきか、地球全体にどう寄与していくか、その道筋をつけていく責務があると思うんですよ。

変わらぬ信念のもと、“21世紀の建築”を問い続けていく

変わらぬ信念のもと、“21世紀の建築”を問い続けていく

社会活動と並行して、当然のことながら、仙田は環境デザイナーとして精力的に作品をつくり続けている。“超”がつくハードな日々だ。最低でも年間5件は携わっているという子ども向け施設を中心にしながら、ここ最近の大きなプロジェクトとしては、幼保一元化の施設「ゆうゆうのもり幼保園」、「国際教養大学図書館棟」「広島市民球場」などが挙げられる。人々やまちに開かれた環境建築――仙田がデザインするものは、どれも変わらず優しい。

周辺環境とどう調和していくか。僕は、環境デザインとは「すでにある物語を大切にしながらデザインする態度」だと定義しています。重要なのは、かたちよりつくり方。自然環境豊かな地域ならば、その環境を破壊しないデザイン、歴史的な地域であれば、まち並みや文化に配慮したデザインが必要で、だから定型というものがないんです。素材もそれぞれ地域のものを使いますし。共通しているのは、私が子どものあそび環境の研究で結論づけた遊環構造という原則のもと、子どもたちに限らず訪れる人たちの意欲を喚起するような建築、環境をつくりたいという思い。それを核としてやっています。

2年ほど前から取り組んでいるのが、熊本県南小国町の新庁舎です。このまちの自然景観は実に美しく、黒川温泉をはじめとする温泉地としても有名ですが、素晴らしいのはそのシステム。まちで入湯手形を発行していて、訪れた人たちは、どこの旅館でも温泉を楽しめるようになっているんですね。そして、入湯手形の販売で得た売り上げは、植栽やサインなど、まち全体の環境価値を上げるために使っている。

そんなシステムに共鳴し、僕らは、観光客も利用できる町役場というコンセプトを打ち出しました。例えば、年に数回しか使わない議場はもったいないから、イベントホールにするとか。来年には完成する予定ですが、住民や観光客に開かれた、かつ興味・行動を喚起するような劇場型の庁舎づくりを目指しているところです。

南小国町の新庁舎は、公募型プロポーザルで最優秀賞を獲得している

南小国町の新庁舎は、公募型プロポーザルで最優秀賞を獲得している。環境デザイン研究所では、同様に、能代市役所(秋田県)や、いわき市のこども元気センターにも取り組んでいるが、いずれもプロポーザルによって選ばれたものだ。新しいことに対する意欲は尽きることがなく、聞けば、年間30件ほど応募しているという。ただ、ここにも仙田の問題意識はある。

前述したように、設計料が安いということだけで勝者が決まる設計入札はまだまだ多いのですが、一方でプロポーザルやコンペが増えてきたのは悪い話じゃありません。しかし、ここにも解決すべき根本的な問題があるのです。

まず、1級建築士の数や実績が重視されすぎていて、新人や小さな事務所が参加するのは難しいという現状。いわゆる足切りです。フランスではコンペが主流ですが、ロングリストの中から選ぶ際、1社は実績のないところから選ばなければならない決まりになっています。対して日本の場合は、応募に該当する建築物の実績を10件くらい書けという。そうすると途端に門戸が狭くなるでしょ。加えて、審査会の問題もあります。インハウスで、外部の人が参加していない場合も多い。もっと客観性を持つ目利きの存在が必要だし、審査会の透明性を高めていかなければいけません。

建築を取り巻く様々な社会システムは制度疲労を起こしていて、大きな改革が望まれています。近く、学術会議で提言を出す予定です。そして、地球環境問題に対応する建築技術の開発も早急に行わなければならない。広い視野に立てば、世界中の建築家がそれを模索しているわけで、若い人たちには奮起してもらいたいし、僕自身もまた、実務と社会活動の両輪で、これからも尽力していきます。

26歳で独立して、自分がつくりたいもの、研究したいことをずっとやり続け、一周巡って東工大の教授になったのが52歳。この時僕は、学会や協会の活動を通じて、社会のシステム問題によりコミットしていくと決めた。周囲には「78歳まで走る」と言っているのですが、この数字はまあ遊び感覚で。好きなことに夢中になった26年間を折り返し、52歳にその時間を足すと78歳になるというわけです。肉体的にはそこそこ劣化してくるでしょうが(笑)、そんな気持ちでいるんです。

PROFILE

仙田 満

仙田 満
Misturu Senda
1941年12月8日 横浜市保土ケ谷区生まれ
1964年3月 東京工業大学理工学部建築学科卒業
             4月 菊竹清訓建築設計事務所入所
1968年4月 環境デザイン研究所を設立し、

代表に就任

2001年6月 日本建築学会会長(~2003年)
2004年4月 こども環境学会会長(~2010年)
2005年4月 東京工業大学名誉教授
            10月 日本学術会議会員(~2011年)
2006年6月 日本建築家協会会長(~2008年)
2010年4月 公益社団法人こども環境学会代表理事
主な受賞歴
  • 毎日デザイン賞(1978年)
  • BCS賞(1987年、2011年)
  • BCS賞(1987年、2011年)
  • 日本造園学会賞(1996年)
  • 日本建築学会賞(1997年)
  • IOC/IAKS賞 (1997年、2001年、2005年、2009年、2011年)
  • アルカシア建築賞ゴールドメダル(2010年)
  • 日本建築家協会賞(2010年、2011年)
  • 村野藤吾賞(2011年)
  • 日本建築学会大賞(2013年)

ほか多数

講師・教授歴
  • 日本大学芸術学部講師
  • 早稲田大学理工学部講師
  • 琉球大学工学部建設工学科教授
  • 名古屋工業大学社会開発工学科教授
  • 東京工業大学工学部建築学科・ 大学院理工学研究科建築学専攻教授
  • 慶應義塾大学大学院特別研究教授
  • 愛知産業大学大学院教授、放送大学教授

などを歴任

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