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建築家にとって重要なのは、建築をどう認識するか、どう実感するか。それは、常に自分を相対化しながら探していくものである

建築家にとって重要なのは、建築をどう認識するか、どう実感するか。それは、常に自分を相対化しながら探していくものである

アトリエ・アンド・アイ 坂本一成研究室 坂本一成

例えば、自由な架構で高い評価を得た「House F」、ヒエラルキー的な集合住宅のつくられ方に一石を投じた「コモンシティ星田」。そして、サステイナブル建築の見本ともされる「egota house A」など、坂本一成は、多く住宅を介して、新しい建築空間の有り様を世に示してきた。また、約40年にわたり大学で教鞭を執ってきた坂本は、思想家としても、社会と建築の関係を真摯に研究し続けている。研究においても、実践においても、その根底にあるのは「建築を自由にする」姿勢だ。それがひいては、人々の生活や活動の自由を許容し、より促すことになると考えている。現代の設計において大切なものは何なのか。相対主義に立ち、常に根本を問い直すスタンスは、今日まで変わらない。

消去法的に選んだ道ながら、大学時代に建築への熱を育む

終戦を迎える2年前、両親が疎開していた東京・八王子で生まれた坂本は、父方の実家である同地と、母方の実家・世田谷を行き来しながら幼少期を過ごした。同じ東京でありながら、当時は「言葉で苦労した」というほど違いがあったらしい。が、いずれもまだ田園や野を湛えていた時代で、多くの子供たちと同様、坂本も野山を走り回りながら、伸び伸びと育った。

父親の実家は農家で、母のほうはいわゆる士族系。それぞれの家の生活様式は非常に対照的でした。例えば農家は、みんなで土間にある囲炉裏で食事をするけれど、片や武士系の家には畳があるだけで、冬場も火鉢しか使わないとか。かつて職業軍人だった父は静かな人でしたが、母はわりに教育熱心。という具合に、僕は何かと〝違い〞のある環境に身を置いてきたので、物事を相対的に捉えたり、いくぶん分裂気味な性格になったのかもしれません。

小学校の途中からは、八王子に落ち着いたんですけど、記憶に残っているのは言葉に戸惑ったこと。「明日、何すんべかよ」みたいな感じで、世田谷の言葉に馴染んでいた僕にとっては、こんなに違うものかと。通った立川高校には、腰に手拭いをぶら下げ、下駄履きで登校するバンカラな生徒がいるかと思えば、都心側からは、昔でいうハイカラさんが来ていたりと、ここでもいろんな違いがあって面白かった。まだ、ある種の地域性が色濃く残っていた時代ですね。

高校では、運動に弱い僕には似合わない、山岳部に入りまして。子供の頃から身近にあったからか、山は好きだった。ただ、落ちこぼれで、僕より早く誰かがくたばってくれれば休めるのにと、営々と思いながら登山していました(笑)。それでもずっと続けたかったのですが、山での遭難事故が続いた時期があって、心配した親から反対されたんです。何でも自由にさせてくれたなか、親に反対されたのは山のことだけ。実はその後、僕が東京工業大学に入った年、同じ学年の山岳部員が山で遭難して亡くなったという痛ましい事故があったので……僕は命拾いをしたのかもしれません。

東工大に進学した段階で、坂本に具体的な職業イメージがあったわけではない。理工系に進んだのは、子供の頃から「お前は理科系だ」と親に言われてきたからだ。「刷り込みは恐ろしいもので、自分でもそう思い込んでいた」と坂本は苦笑するが、それが結果、建築への道を歩ませたのである。

2年生での進路振り分けの際、目に見えない化学は苦手だとか、やりたくないものを外していくと、建築と機械が残ったのです。1964年の東京オリンピックの前で、建築の景気が非常によかったこともあり、競争率は高かったけれど、僕としては消去法で導き出した第一志望でした。何となく、村里やまちなどの環境的なことに興味を持ってはいましたが……さして強い動機があったわけではないのです。

その後、4年生から研究室に入るのですが、その前に、僕はスペインのマドリッドに行くことが決まっていました。理系学生に向けた海外インターンシップ制度が始まったタイミングで、それに応募したのです。海外の写真集などを通じて、ヨーロッパの山岳集落に興味があったものだから、実際に行ってみたくて選んだ先です。

当時の東工大で設計をしたい場合には、清家清先生の研究室になるので、その旨を伝え、スペインの集落を勉強して卒業論文にしたいとお伺いを立てたら、「いいね。せっかく行くのなら、行きっぱなしにしたら?」と言われちゃって(笑)。もうダメ、見捨てられたと思い込んで、篠原一男先生を頼ったのです。一般教育の図学を担当され、建築学科の先生ではなかったのですが、卒論だけは希望者がいれば受け入れるという話だったから。すると、民家を研究されていた篠原先生は、「うちの研究室でも集落を研究対象にしたいと思っていたところ。坂本君、一緒にやろう」と優しい言葉をかけてくださった。もっとも、優しかったのはこの時だけでしたが(笑)、無事に研究室が決まり、私は予定どおりスペイン行きを果たすことができたのです。

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PROFILE

坂本 一成

坂本 一成

1943年7月19日   東京都八王子市生まれ
1966年3月     東京工業大学工学部建築学科卒業
1971年4月     東京工業大学大学院博士課程を経て、
武蔵野美術大学建築学科専任講師
アトリエ・ハウス10設立
1977年4月     武蔵野美術大学助教授
1983年12月     東京工業大学助教授 工学博士(東京工業大学)
1991年4月     同大教授
2009年4月     同大名誉教授
アトリエ・アンド・アイ
坂本一成研究室設立

主な受賞
1990年 日本建築学会賞作品賞(House F)
1992年 村野藤吾賞(コモンシティ星田)
2011年 日本建築学会賞著作賞
(『建築に内在する言葉』/TOTO出版)

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