小説や音楽、美術などの違う分野にも視野を広げてみる。想像力が遠く飛べば、アイデアが出るし冒険もできるから
北川原 温
個性的な発想と、独創的なデザインで名の立つ北川原温(きたがわら・あつし)。公共・民間問わず、また建築の設計にとどまらず、都市設計やランドスケープデザイン、インテリアデザイン、さらには舞台美術なども手がける北川原の表現領域は、実に幅広い。そして、それら作品の一つ一つには、いつも違う表情がある。目に映る建築物そのものより、「そこに込めた〝意味〞が重要」だと考え、素材やかたち、既存の建築スタイルにまったく執着しないからだ。彼を励起させてきたのは、ずっと傍らにある詩や音楽、現代美術である。建築という枠を超えた創作活動を続ける北川原には、「芸術家」という呼称のほうが似つかわしい。
自然豊かな地で、好きなことに熱中し、感性を育んだ少年時代
先祖代々、庄屋を務めてきた北川原家。戦後の農地改革で広大な土地は失ったものの、長野県千曲市にあった実家は、築約300年というお屋敷で、今もその名残をとどめている。古くはバイオリンに興じた曾祖父がおり、北川原の父親は歌人・折口信夫の門下生、母親は茶道江戸千家の名取り。系譜を見れば、北川原が文化や芸術に親しむようになるのに、十分な素地はあった。
気が小さくて泣き虫、そんな子供だったんですよ。だから、友達と野球をするより絵を描くとか、昆虫採集するとか、一人で遊ぶほうが好きでした。絵は小さな頃からわりに得意で、いろんな賞を取り、褒められたりするものだから、調子に乗ってしょっちゅう描いていたんですけど、一番夢中になったのは蝶の採集。初めて見た「シータテハ」に魅せられてから、のめり込んじゃって。図鑑や専門家用の補虫網を買ってもらい、蝶の翅を広げてピンで止める展翅板も自分でつくり……すごい数の標本を自作しました。長野県内での採集だったけれど、小学生のうちに100種類くらいは採ったかな。もう50年以上経ちますが、全然変化しないし、鱗粉の輝きも褪せない。自然はすごいですよ。今見ても美しく、自然の力があふれていた昔はよかったなぁと思いますね。
中学生になってからはギターを始め、作曲なんかもしていました。僕は、自分の感性に訴えてくるものには、素直に熱中するというか、どこか夢見る少年だった。コンサートを見ればピアニストに憧れ、自分もなりたいと思ったし、あとは星も好きで、天文台の館長になりたいとか、そんなことを口にしていました。かわいいもんですよ(笑)
県立高校の教員職にあった父親の転勤に伴い、長野県飯田市に移り住んだのが高校3年生の時。それまで長野市にある高校で青春を謳歌していたのが、突然の転校で、北川原は面白くなかった。少々意外だが、「外ではおとなしかったけれど、家ではひどい態度を取るようになった」という。反抗期でもあったのだろう。
転校で生活が一変して頭にきていた僕は、ことごとく反抗していました。母親はそんな僕をなだめるつもりだったのか、バイクを買ってくれた。無免許なのに。親父は教員だから、まずいのはわかっていたけれど、隠れてちょっとだけ乗ったりしてね。いわゆる暴走族などとは全然違って、そこはほら、気が小さいからそんな程度ですよ(笑)。
ところがある日、そのちょっとだけを担任に見とがめられ、ひどく怒られた。「お前のようなヤツは、ろくな者にならん」。その時、反射的に言い返したのが「僕は芸術家になる!」。そんなこと考えてもいなかったのに、反抗心から叫んじゃった。で、そのまま美術部に向かい、同級生ですごく絵の上手い窪田正典君に事情説明。「俺さ、宣言してきたから絵を頑張ってみようと思う」と。その後、どうせならと東京藝術大学の受験を勧めたのは窪田君なんですが、逆に、僕のデッサンを見て「これだと、絵描きは無理かなぁ」と評価を下したのも彼なんですよ。それで絵画科ではなく、わずかでも可能性がありそうな建築科を目指すことにしたのです。それからは建物に絞ってデッサンをするようになり、僕なりによく頑張ったとは思います。
当時は30倍くらいの倍率で、半ば浪人覚悟だったし、むしろアーティスト気分で浪人するのもカッコいいくらいに思っていた。受験の時も、浪人生とおぼしき連中の服装がおしゃれでね、学生服だったのは僕だけ。恥ずかしかったのを覚えています。それが現役合格となり、僕はもちろん、兄や両親も「うそじゃないの?」って驚いていましたね。
- 没頭した詩や現代美術。砂漠で経験した大自然。それらすべてを糧に
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没頭した詩や現代美術。砂漠で経験した大自然。それらすべてを糧に
もともと理系コースだった北川原は、バイクの一件で思わぬ進路変更となったが、晴れて一発合格。上京し、未知の環境に期待を寄せ、東京藝大に通い始めた……が、数カ月も経つと「飽きてしまった」そうだ。北川原が次にのめり込んだのは、古書店巡り。書物で出会った詩人や美術家に傾倒し、建築からはしばらく遠のくことになる。

東京藝術大学美術学部建築学科へ進学。古美術研修のため同期の仲間と京都と奈良へ。写真はほぼ中央の、長髪、サングラスが北川原氏
建築とは何かなんて、考えたことがなかったから、「よほど変わったことを学ぶのだろう」「何かあるに違いない」と、勝手に期待しすぎていた。ところが、建築というのは柱があって、梁があってと、勉強があまりにまっとうで拍子抜けしたんですよ。その基礎の重要さは、あとになってわかるのですが、この頃の僕にはつまらなく思えて、まあ不真面目な学生でした。
それでも、僕にとって存在の大きな先生がいます。当時の建築界の重鎮、吉村順三先生ですが、ある時の授業で、手にした木材のかけらを指して「この中には、森があるんだよ」とおっしゃった。聞いた時は、意味が全然わからなかったけれど、ずっと記憶に残っていました。本当の意味がわかったのは、ここ10年くらいかな。木造建築をやるようになり、自然や生態系の勉強をしたことで、あの言葉は「森の生態、ひいては地球全体を考えて建築をやれ」という意味だったんだなと。今思えば、大きな教えを受けていたのです。
大学にはほとんど行かず、毎日のように通っていたのは神田の古本屋街。あの空気感が心地よくてね。特に海外の情報に触れていると、様々な興味が喚起される。本屋さんは、僕にとって未知の世界に行くための国際空港みたいなもの。なかでも衝撃を受けたのが、フランスの詩人、ロートレアモン伯爵の『マルドロールの歌』。エロチックな記述も反社会的な記述もありで、過激な内容なのですが、とりわけ「解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい」の一節は、新しい世界に気づく大きなきっかけとなった。ものの見方が変わりましたね。
それからヌーヴォー・ロマンにのめり込み、加えて、現代美術へと興味を移すようになっていきました。現代美術のあり方を世界に示したマルセル・デュシャンとか。「ピカソは目に訴える芸術。デュシャンは脳に訴える芸術」とオクタビオ・パスが評したように、観る者が考えなければならない〝意味の絵画〞を描くデュシャンもまた、僕に大きな影響をもたらした美術家の一人です。
折悪しく、北川原が大学を卒業する頃は、オイルショックで就職口がほとんどなかった。ひとまず大学院に進んだ北川原だったが、思いがけず、この時代に貴重な経験を得ることとなった。丹下健三氏の事務所のアルバイトとして、サウジアラビアの都市計画調査に参加。行き来を繰り返しながら都合1年半、院生生活の大半はこの仕事に費やしたことになる。
先輩の芦原太郎さんから「砂漠とか好き?」と声をかけられまして。僕はてっきり鳥取砂丘あたりかと思っていたら(笑)、「本当の砂漠だよ。サウジアラビアなんか行ったことがないだろう」と。さっそく丹下先生の面接を受け、大学院に入った年の12月には出発していました。アルバイトの学生部隊は3人でしたが、社会学や都市工学、農業などの専門家たちと共に、ジープでいろんな集落を駆けめぐる仕事は、本当に面白かったですねぇ。
危険手当が付いたぐらいだから、もちろん危ない場面にも遭遇しました。砂漠にはワジと呼ばれる涸れ河川があって、幅が数㎞に及ぶのですが、雨季になると、突然、津波のように泥水があふれだす。大型トラックをも飲み込む勢いで。また、驚いたことに、砂漠でも雹が降るんです。でっかい雹はアッという間に地面を埋めつくし、泥づくりの住居群をどんどん壊していく。話せばキリがないのですが、そういう日本のスケールでは考えられないような自然に触れられたことは、すごく貴重な体験となりました。
行ったり来たりの生活を1年半ほど続けたので、修士論文もサウジでの調査をもとにして書き、確か現地から送ったような……。本来ならば、それじゃあ修了はかなわないと思うのですが、恩師の藤木忠善先生が大目に見てくださったんでしょう、何とか無事に出してもらえました。
- 個性的な発想による作品群が着目され、早々に表舞台へ
- 個性的な発想による作品群が着目され、早々に表舞台へ
個性的な発想による作品群が着目され、早々に表舞台へ
そのまま丹下事務所に就職する道もあったが、「サウジ行きはさすがに疲れた」北川原は、当面ブラブラすることにした。「当時の丹下事務所は中近東の仕事を山ほど抱えていて、また飛ばされそうだったから」。1980年、北川原温建築都市研究所( 82年、株式会社に改組)を創設。スタートは、27歳の時に手がけた個人住宅だった。
聞こえがいいように(笑)、経歴的には設計修業の期間としているんですけど、昼は読書、夜は六本木に遊びに行くという毎日で、しばらく何もしていなかったんですよ。サウジのアルバイト代がすごくよかったんで、その蓄えで食いつなげたし。
そんな僕に声をかけてくださったのが、丹下事務所でお世話になった上司の森岡さんです。「お前、ヒマにしているんだったら、俺の家の設計をしてくれないか」。責任重大だと思いつつも、好きにやらせてもらった最初の仕事です。柱のてっぺんが構造に付いていないとか、手すりも途中で切れているとか、ちょっと怖い家(笑)。僕が好きなアンドレ・ブルトンの代表作に、『ナジャ』というシュルレアリスムの小説があるのですが、それにちなんで「ナジャの家」と名付けました。それが、僕の処女作。『新建築』とか、いろんな雑誌に取り上げられたことで、ほかからも声がかかり、その後何軒か個人住宅を手がけました。
初期の作品で存在が大きいのは、やはり「ライズ」ですね。初めて臨んだ商業施設で、映画館と店舗の複合施設。十分な完成度だとは思っていないけれど、建築のありようとして、詩や現代美術がベースになっている作品です。東京という都市はまるで無秩序に見えるんだけど、でも、破綻なきカオスっていう不思議な状態。そのバラバラな状態、現代都市が持つ様々なイメージを凝縮したのがライズ。今、自分が生きている時代の周りにあるものを集めて、組み合わせ、新たな意味作用を起こす||これは、先述した美術家、デュシャンが古くにやっていた手法で、明らかに影響を受けています。「建築とはどうあるべきか」を考えるきっかけになったという意味では原点であり、しばらくこの作風が続きました。
その独創的なデザインで着目された「ライズ」を皮切りに、北川原は精力的に作品を生み出していく。集合住宅「メトロサ」では、日本建築家協会新人賞を受賞。90年代に入ってからは、異業種交流型の工業団地「アリア」、福島県産業交流館「ビッグパレットふくしま」など、都市計画や規模の大きなプロジェクトも手がけるようになり、多数の建築賞受賞と共に、北川原の名は広く知られるところとなった。
30歳を過ぎてから知ったステファヌ・マラルメという詩人がいるのですが、また、しばらく没頭しまして(笑)。彼の詩って実に空間的で、言葉がマスタープランのように散りばめられている。文字と文字の間に何かがある感じで、次第に構図が見えてくるんですよ。
フランスの哲学者、モーリス・ブランショがいいことを書いていましてね、「マラルメの遺作『骰子一擲』は、分裂と統合を同時に実現している建築である」と。ちゃんと建築という言葉を使っているんです。そうか!って。
実は、そのマラルメとデュシャンをテーマに設計したプロジェクトが、工業団地の「アリア」なんです。敷地が7 ha、延べ床面積2万4000㎡くらいのものを10年間かけてやったんですが、マラルメに始まってデュシャンに至るというプロセスでした。まだ、ちゃんと咀嚼できていない頃ではあったけれど、それまで詩や現代美術ばかりに興味を持っていた僕が、建築との接点を見いだすことができた仕事です。ずいぶん遠回りをしましたが、40代半ばにして、やっと「建築をしていてよかった」と思えたのです。
- 途切れることのない夢。仲間たちと共に追い求め、走り続ける
- 途切れることのない夢。仲間たちと共に追い求め、走り続ける
途切れることのない夢。仲間たちと共に追い求め、走り続ける
その後、環境共生に優れた木造建築にも取り組み、「岐阜県立森林文化アカデミー」では、金属をまったく使用しないという画期的な構造を提案し、9つの賞を獲得した。異色なところでは、オランダの国立バレエ団、ネザーランド・ダンス・シアターの舞台芸術を手がけた「ONE OF A KIND」。ずっとそうであったように、北川原は興味の赴くままに、その創作領域を広げてきたのである。
僕には「これじゃなきゃダメ」がないんです。もとより〝まともな近代建築〞をするつもりはなかったし、僕にとって重要なのは「意味が何なのか」です。やはりデュシャン的なんですよ。材料やかたちは二の次。そこにこだわって自分のボキャブラリーをつくってしまうと、傍目に映る〝らしさ〞を失うのが怖くなって、殻ができるのはつまらないから。
本来、建築って社会的なものでしょ。公共建築であれば、その地域や社会にどう役に立っていくかが大切だし、個人宅であれば、所有者の家なのだから、建築家がスタイルを押しつけるものじゃない。何かひとつ、感じてもらえるものがあればいいんです。住む人が自分風に暮らしていけることが、やはり大切だと思うのです。だから僕は、建築物を作品だとは考えていません。あえて言えば、その建築に込めた意味が作品ということでしょうか。
例えば、キース・ヘリングのコレクションのみを展示するプライベート美術館は、現在も増築工事が進んでいますが、そのなかで、かたちが変わっていっても全然かまわない。オーナーは、美術館棟ができたところで完結していると思って、気を遣ってくださるんだけど、僕は改造も増築も「いいですよー」って(笑)。ゲストハウスがもうすぐ完成しますし、ホテルも今、着工しているところです。八ヶ岳の麓にある3万㎡余りの広大な敷地にある建物が、それぞれ全然違っていて、「別の建築家が設計した」と思われるくらい。まだまだ増築を進めていきますが、楽しみな仕事ですね。

2008年、「中村キース・ヘリング美術館」が村野藤吾賞を受賞。北川原氏は今も、同美術館の増築やホテル、ゲストハウスなどの設計に携わっている
他方、北川原は東京藝大で長らく教鞭を執っており、北川原研究室では異分野の専門家たちとも協力しながら、様々な研究や創作活動に取り組んできた。今、力を注いでいるのは、都市ひとつをまるごと考えるプロジェクト。いくつかの対象地域を調査するなか、定めた地域が上野一帯である。そこに、これまでになかった都市を創造するのが北川原の夢。星霜を経ても、かつての「夢見る少年」は健在なのである。
上野公園を中心に広がる国立博物館や都美術館、動物園、文化会館、それに東京藝大など、公的な芸術文化系の施設群の広がりは80haというものすごい面積になるんです。その全体を考えていこうという研究プロジェクトで、先般、海外の企業が助成してくれることになったので、本格的に研究をスタートすることになりました。
都市づくりというと、コマーシャルな再開発が多くなりますが、そこにとらわれず、僕は〝生きた都市〞を考えたいのです。いわゆる再開発で高層ビルを建てると、まずはお金の計算をして、例えば、500億円投資したら20年でここまで回収して……と算段する。そうすると、だいたい紋切り型になって面白いものができない。もちろん経済は大事ですが、僕が上野の杜で考えているのは、芸術文化を骨格にし、そこに経済がついてくるような都市づくり。今、音楽や美術は当然のこと、文化人類学や交通工学などの専門家らと協力しながら、新しい都市像を描こうとしています。同窓の坂本龍一さんも、「僕もそういうのを考えていたんだ。やりたいよね」って。
基本、上野一帯は縄文時代の森に戻すべきだと思っているんです。元来は大規模な縄文集落があったところで、貝塚も古墳も残っている。現代までの長い時間を感じられる貴重な場所なので、建物はなるべく地下につくり、地上は森にする。タヌキやハクビシンがいっぱい住み着くような……。「日本にもこんな都市ができたんだ」と言わしめるような僕の夢が実現したら、上野の山は、本当に東京を救うかもしれない。おこがましいのですが(笑)。
僕は要領が悪くて、あまりスマートにいかないんだけど、でも、夢はいつも大切にしてきた。今は時代がそうなっているのか、みんな、すぐ隣にあるものや、現実的なことしか考えていないような気がします。想像力の飛ぶ範囲が狭いというか。時に、階段の下に収納を設計したと自慢している学生なんかを見ていると、「えーっ?」とか思っちゃう。もうちょっと大きなこと、先のことを考えてほしいなぁと。建築の世界だけにとどまらず、小説を読むとか、美術や音楽に触れるとか、違うジャンルにも視野を広げればアイデアが出るし、冒険もできるんです。ボールに例えるなら、見えなくなるところまで思いっきり投げるような、そんな感覚を大切にしてほしいですね。
- 北川原 温
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1951年10月31日 長野県生まれ
1974年3月 東京藝術大学美術学部建築科卒業
1977年3月 同大学大学院修士課程修了
1982年6月 株式会社北川原温建築都市研究所設立
2005年4月 東京藝術大学美術学部建築科教授
2007年6月 ATSUSHI KITAGAWARA ARCHITECTS(ベルリン)開設
- 主な受賞歴
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●日本建築家協会新人賞(1991年)
●ベッシー賞(2000年/舞台美術)
●日本建築学会賞作品賞(2000年)
●日本建築学会賞技術賞(2002年)
●BCS賞(2002年/2011年)
●ケネス・ブラウン環太平洋建築文化賞大賞(2006年~2007年)
●村野藤吾賞(2008年)
●アメリカ建築家協会JAPANデザイン賞(2008年)
●第66回日本芸術院賞受賞(2010年)
ほか多数