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“べき論”ではなく、「何をしたいのか」「何が楽しいか」を大事にする。<br/>そうすれば、これまでの建築家がやってこなかった新しいジャンルが生まれてくると思う

“べき論”ではなく、「何をしたいのか」「何が楽しいか」を大事にする。
そうすれば、これまでの建築家がやってこなかった新しいジャンルが生まれてくると思う

青木 淳

個人住宅をはじめ、「潟博物館」「青森県立美術館」「杉並区大宮前体育館」に代表されるような公共建築、そして一連のルイ・ヴィトンの商業施設、青木淳が手がける作品は多岐にわたる。いずれも印象に強い、チャレンジングなものばかりだ。湛える表情は違えど、一貫しているのは「人と空間が対等になれる感じ」である。造形・機能に対する追求よりも、青木が心を砕いているのは、人に行為や感覚を強要しない空間づくりだ。何かしらを伝えようという〝押しつけ〞がないから、人々はそこにある空間を自分のものとして感じることができる。青木が提起し続けているのは、そんな包容力を携えた豊かな建築である。

設計にのめり込み、アトリエ事務所で「つくる」経験を積む

色濃くなってきた建築不況を背景に、青木が教養学部を終えた頃は「合格点さえ取っていれば、誰でも建築学科に入れた」そうだ。加えて、大学紛争末期だった当時、建築学科には必修科目がほとんどなく自由度も高かった。「やりたいことを好きにできる」環境で、青木が没頭したのは設計課題だった。

架空の土地に図面を描きながら、何度も何度も案を考えて表現する。クイズ感覚とでもいうのか……設計課題には、それまでのどんな経験をも超える楽しさがあった。文字どおり寝食を忘れて没頭しました。実際に食べなかったし、寝なかったし、ぶっ倒れるまで。設計課題のためだけに大学に行くような学生でした。あとは相変わらず映画館に通ったり、コルビュジエが好きだったからフランス語の専門学校に行って勉強したり。だから、設計以外の科目成績はひどいものでしたよ。

とにかく「建築をしたい」という思いが強かったから、大学院に進んだのは自然な流れでした。研究室で師事した香山壽夫さんも学生に「これをしなさい」がまったくない先生で、自由にさせてくれるのが本当に楽しかった。

ただ一方で、僕は院生になってから磯崎新さんの事務所でアルバイトを始めたことで、「自分が何一つできない」ことを思い知ることになります。共同作業が苦手で、人から命令されるのもイヤ。そのくせ過剰な自信だけは持っているという生意気な学生だったわけですが(笑)、でも実は、それは怖さの裏返しなんですよ。本当は能力がないんじゃないか……という。だから何となく予感はあって、バレるならバレるしかないと思ってアルバイトに臨んだら、案の定です。自信は打ち砕かれ、やはり設計の現場に入ってちゃんと勉強しなければ「やっていけない」と思い知りました。同時に、大不況で建築の仕事がないものだから、インテリアの世界に近づいてみたりと、この頃は何だか足下が揺らいでいましたね。

修士課程修了後、青木は磯崎新アトリエに入所。一から勉強し直そうと、心機一転の心持ちだった。アルバイト時代に挫折感を味わっただけに、「仕事についていけるよう必死に頑張ろうと。入れただけで嬉しかったから」と、青木は当時を振り返る。

磯崎さんはとにかく怖かったですね。最初は、磯崎さんが描いたファーストスケッチをちゃんと読み取ることもできないから、無視されちゃって(笑)。この頃は海外コンペも増えていましたが、そっちに回るのは優秀な人材で、僕が携わっていたのはほとんど「実際につくる」仕事。磯崎さんの作品である岩田学園に体育館を増設するとか、篠山紀信さんのスタジオづくりとか、いろいろと。結果的にはよかったと思っています。多くのコンペのように実現しないものではなく、必ず実現するもので経験を積むことができたから。

ついていくのを目指して入ったので、言われたことを懸命にやり、コンペに初めて手を挙げたのは3年以上経ってからです。それがニューヨークのブルックリン美術館。拙い英語で現地ではけっこうつらい思いもしたけれど、首尾よく勝つことができたのです。次が水戸芸術館で、総合プロデュースした磯崎さんの下で3年半かかわりました。完成したのが1990年、この頃には僕もある程度認めてもらえるようになり、仕事も本当に楽しかった。

水戸芸術館が終わったのを機に独立することにしたのですが、それは「したくて」ではなく、あえて厳しい道を選んだという感覚でしょうか。大きなプロジェクトも増えていたから、次に入ると7年はかかるだろうと。そうなると40歳……年齢的にもう独立できないと思ったんですね。僕にとっては、磯崎新アトリエに入ることが一番のチャレンジングだったわけで、いつかはそれを超えなければと思っていました。頭で考えれば事務所に残るほうがラクだったのですが、ある意味、自分を追い込んでの決心でした。

一人、自宅事務所からのスタートです。ところが、バブルが弾けた直後の時期ですからね、挑戦モードだった気持ちとは裏腹に仕事がない。「独立するなら」と声をかけていただいていた話もパッタリで。水戸芸術館を見学したメーカーから依頼された本社ビルの設計も、案を出していったんは決まったものの、立ち消えになっちゃいました。なので、僕の処女作としては、知人からの声がかりで手がけた住宅ということになります。

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公共建築や商業施設。野心的な作品で活動領域を広げていく

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PROFILE

青木 淳

青木 淳

1956年10月22日 横浜市中区生まれ
1980年3月 東京大学工学部建築学科卒業
1982年3月 東京大学大学院修士課程修了
9月 磯崎新アトリエ入所
1991年9月 青木淳建築計画事務所設立

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