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Architect's magazine

建築は、人々の生活や社会を 変える力を持っている。 その力を託される建築家は、 真摯に人と向き合うべきである

建築は、人々の生活や社会を 変える力を持っている。 その力を託される建築家は、 真摯に人と向き合うべきである

手塚貴晴

 独立して、現在の「手塚建築研究所」を立ち上げたのは、ちょうど30歳の時。以来、手塚貴晴は、パートナーである手塚由比氏とともに意欲的な建築を世に送り出し、その活動の幅を広げてきた。OECD(世界経済協力機構)とUNESCOにより、世界で最も優れた学校に選ばれた「ふじようちえん」をはじめ、代表作に「屋根の家」「越後松之山『森の学校』キョロロ」「渋谷フクラス」などがある。設計ジャンルが何であれ、人間にとっての心地よさを本質的に追求した作品群は、いずれも大きなインパクトを放つ。「建築は人々の生活や社会を変える力を持っている」――そう確信した日から、手塚は建築を手段として、世の中を〝素敵〞にするために走り続けている。

留学、海外勤務を経て、建築の〝本質〞を見いだす

 複数の留学先候補から合格通知が届いたなか、手塚はペンシルバニア大学大学院を選択する。当時はロバート・ヴェンチューリやピーター・ライス、レム・コールハースなどが教鞭を執っており、「伝説の人物がいるというだけで胸が高鳴った」。そして海外に出たことで、手塚は大きな転換を迎える。

 留学してすぐに、痛い思いをしたんですよ。図面を早く描ける、きれいな模型をつくれるといった、私の得意とするスキルが全然評価されなかったのです。日本にいた頃は「どういうかたちにするか」ばかりを気にしていて、正直、建築のコンセプトなんてわかっていなかった。講評でも、私の作品は「きれいにできているね」止まりで認めてもらえず、議論にならない。何かがまずいのだと、悩みましたねぇ。

でも、これがすごくいい機会になりました。アレックス・ウォールという、レム・コールハースのパートナーだった先生からコンセプトというものを学んでから、捉え方が変わったのです。何のための建築なのか――コンセプトがなければ、世に通用しないことを学び得たのは大きかったですね。

修了後は日本に帰るつもりだったのですが、さして先のことを考えていなかった私に、アレックス・ウォールは「このまま働いてみれば?」と。実際にいくつかの事務所を紹介してくれて、そのなか、「アットホームでいいよ」と勧められたリチャード・ロジャースの事務所で働くことにしたのです。

振り返れば、私はいつも〝向こうから来た話〞に乗っかることで人生が開かれてきたというか……。いろんな先生との出会い、巡り合わせに恵まれてきたのだとつくづく思いますね。

 ロンドンに渡ったのは1990年。手塚は新しい生活をスタートさせた。同じく建築家である由比氏と結婚し、加えて、非常に居心地のいいリチャード・ロジャース・パートナーシップでは、仕事にも懸命に打ち込んだ。結果的に勤めたのは4年間だったが、大きなプロジェクトも動かし、手応えとしては「10年分くらいの経験を積んだ」。

 かたちになった大きな仕事としては、ヒースロー空港の第5ターミナルです。当初、事務所に依頼があったのはVIPラウンジの仕事だったんですけど、インテリア系ならば日本人の若造でも任せてもらえるから嬉しくて。嬉々としてやっていました。その過程で、動線計画も提案するなど積極的に動いていたら、クライアントに気に入られて、ターミナルの設計にまで話が広がったという経緯です。実に70億円のプロジェクト。まだ20代でしたが、すごい経験になったし、事務所の経営にも貢献することができた。周囲から「できるのか?」と心配されるほど仕事を抱えていましたが、私としてはもう夢いっぱい、希望いっぱい(笑)。本当に居心地がよくて、ずっとイギリスにいるつもりでした。転機が訪れたのは93年の末。何気なく実家と電話で話していると、父がとんでもないことを言い出したのです。

「お前の叔父さんから、病院の設計を頼みたいという話があった」と。だけど、私にはまだ無理だから、鹿島の設計部に頼んだという。「えー! なんで?」ですよ。父は、リチャードの事務所を留学の延長ぐらいに思っていたわけです。ちゃんと仕事している私にとっては大チャンスなのに。だから、この機会を逃すわけにはいかないと、すぐさま東京に飛びました。

実家に帰って食い下がっていると、「一晩でいいプランができれば、叔父さんのところへ連れていく」という話になった。で、私は実際に6時間ほどでプレゼン材料をそろえ、父に「できるじゃないか」と言わせたわけです。結果、叔父へのプレゼンテーションはうまくいって、契約に至ったのはロンドンに戻って半年が過ぎた頃でした。この仕事が、帰国して独立するきっかけとなった佐賀県の「副島病院」です。

事務所ではすごく認めてもらっていたけれど、独立を考えるメンバーに対しては気持ちよく送り出す文化があったから、慰留はされませんでした。わずか4年間でしたが、辞めた以降も、リチャードとは彼が亡くなるまでお付き合いが続いたんですよ。雲の上のような存在なのに、ずっと近くで可愛がってくださった。そして何より、真のモダニストであるリチャードから受けた「建築において優先すべきは、人々の行動や生活を理解すること」という教えが、私の支柱となったのです。

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建築が持つ力を確信。人々の行動や生活をテーマの中核に据える

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PROFILE

手塚貴晴

手塚貴晴
Takaharu Tezuka

1964年2月23日 東京都新宿区生まれ
1987年3月 武蔵工業大学(現東京都市大学)
工学部建築学科卒業
1990年6月 ペンシルバニア大学大学院修了
9月 Richard Rogers Partnership London入所
1994年7月 妻・手塚由比と手塚建築企画を共同設立(現手塚建築研究所)
1996年4月 武蔵工業大学専任講師
2003年4月 武蔵工業大学准教授
2009年4月 東京都市大学教授

家族構成=妻、娘1人、息子1人

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