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Architect's magazine

自分なりにコンセプトを立てて、 「こうしたら社会がよりよくなる」と 常に考えながら設計に臨む。 それが、建築家のあるべき姿だと思う

自分なりにコンセプトを立てて、 「こうしたら社会がよりよくなる」と 常に考えながら設計に臨む。 それが、建築家のあるべき姿だと思う

佐藤尚巳

「東京国際フォーラム」を統括・監理したことで知られる佐藤尚巳は、その知見を生かし、独立後も数々の大型プロジェクトに参画してきた。主なものに「神保町三井ビル」「青山OM–SQUARE」「いわき芸術文化交流館アリオス」などがある。強く意識しているのは、その街の魅力を高め、人々の心に響くような建築デザインだ。そして、それらは佐藤が重んじる豊かなコラボレーションによって世に送り出されてきた。2022年、日本建築家協会(JIA)の会長に就任。高い視座の下、佐藤は今、次代を担う人材の育成と、建築家の存在意義を社会に知らしめる活動に尽力している。

実務経験を積んでからハーバード大学へ。アメリカでの挑戦

「早く設計の実務に就いてものをつくりたい」と考えていた佐藤は、菊竹清訓建築設計事務所に入所する。東大とは系統が違うが、芦原研究室の先輩たちが入所していたこともあり、親近感があった。加えて決め手となったのは、先輩たちから聞いた「若いスタッフもすぐに現場に送り出して、いろんな経験をさせてくれる」という言葉だった。

 実際、早々に学習院中高等科の第二体育館、西友や京都信用金庫の地方店舗などの現場を担当させてもらいました。力強い形態というのが菊竹さんの印象ですが、僕が入所した頃は一通りやり終えていて、そんなに強烈な建物はつくっていなかったんです。ただ、作品は穏やかでも、仕事には厳しかった。あれもこれも「ダメ!」と、スタッフは皆、怒られまくってました。

今も身に染みついているのは、最終的に決める時には、原寸で考えるということ。でないと間違う。例えば2分の1のスケールで検討すると、できたものがぼやけるというか、緊張感がなかったりする。図面に描いたものが、現場では環境にそぐわないことは往々にしてあるので、「原寸で自分が正しいと思うものをつくる」という教えは、すごく大事にしています。

あとは「つくりながら考える」。菊竹さんには、たまげるような逸話がいくつもあります。出雲大社庁の舎では、杭を打った段階で柱の幅が狭すぎるといって、基礎梁を延ばして柱を載せたという話。また、竣工間際の建物をチェックしに行った時は、手すりが気に入らないと、その場でチェーンをかけた車で引っ張ってぶっ壊したという話もある。つくりながら見て、考えて「違う」と思ったら、徹底的に直すわけです。設計って、描いた図面を渡せばものができると思っていたけれど、そうじゃない。ここまでやるのは菊竹さんぐらいでしょうが、その執念は勉強になりました。菊竹事務所で7年ほどお世話になり、建築に取り組む姿勢、その根幹を学んだように思います。

 事務所を辞した1986年、佐藤はハーバード大学デザイン学部大学院に留学する。独立も意識にはあったが、「その前に海外に出て、いろんなものを見て、〝自分の建築〞を考え直そうと思った」。大学院修了後は「I.M.Pei&Partners」に勤務し、様々な経験と学びを得るなかで、自分なりの道筋を立てていったのである。

 ハーバードでは、当時、建築学科長だったラファエル・モネオのスタジオを取れたのが大きかったですね。この頃、日本はバブル景気の後押しもあって、ポストモダン建築がはやっていた時代です。僕もその影響を受けて、尖った様式的なデザインをしていたのですが、それを「中身が伴っていない」と指摘したのはモネオでした。「ファッショナブルなことをしてはいけない」と。本質的なデザイン、何が建築に求められているのかを深く考えることの大切さを、改めて教えられたのです。

I.M.Peiの事務所もいわゆるモダン建築がメインですから、方向性は同じで、建物の構成とデザインとの合理性、街全体を捉えたファサードがいかに大事かを再認識することができた。そして、アメリカの設計スタイルはコラボレーションが基本であることを知りました。デザイン以外の仕事はコンサルや協力事務所と協働して設計を進めていく。ここが日本やヨーロッパとは大きく違う点で、この頃はとても新鮮に映りました。僕も昔は難しそうな顔をしていまして、建築家は一人で全部考えて指示できなければいけないと思っていたけれど、チームワークの大切さも知り、けっこう意識は変わったと思います。

日本を出る時は「向こうで存分にやろう」と半ば帰らない覚悟だったのですが、4年くらい経った頃から悩み始めたんですよ。アメリカ社会にはやっぱり人種差別があって、なかなか本当の意味でトップにはなれない。それと大変な訴訟社会でもあり、揉め事が多いのも自分には向かないなぁと。ラファエル・ヴィニオリが東京国際フォーラムの国際公開コンペを取ったのは、まさにそんな頃でした。で、少し経ってから「ラファエルの事務所が日本人スタッフを探している」と聞いたものだから、すぐにアプローチ。彼の設計スタイルは好きでしたし、「一緒に仕事がしたい」と門を叩いたのです。

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街づくりの観点に立った建築デザインを――。精力的に活動する

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PROFILE

佐藤尚巳

佐藤尚巳
Nao Sato
1955年5月23日東京都生まれ
1979年3月東京大学工学部建築学科卒業
1979年4月菊竹清訓建築設計事務所入所
1988年5月ハーバード大学デザイン学部大学院建築学専攻修了
I.M.Pei&Partners入所(NY)
1990年1月ラファエルヴィニオリ建築士事務所入所(NY)
ラファエルヴィニオリ建築士事務所東京事務所長
1996年11月佐藤尚巳建築研究所設立
2022年6月日本建築家協会(JIA)会長

家族構成:妻、娘1人、息子1人

<その他活動>
国士舘大学工学部建築学科非常勤講師、武蔵野美術大学建築学科非常勤講師、東京工業大学工学部建築学科非常勤講師、芝浦工業大学建築学科非常勤講師、(東京都)港区景観アドバイザー、東京都市場問題プロジェクトチーム委員、など多数

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