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建築家として活動する以上、その建物、場所に長くかかわる覚悟を持ってほしい。流れる時間に対して責任を持つのも大切なこと

建築家として活動する以上、その建物、場所に長くかかわる覚悟を持ってほしい。流れる時間に対して責任を持つのも大切なこと

篠原聡子

 プロフェッサー・アーキテクトとして長いキャリアを有する篠原聡子は、一貫して「住むこと」に携わってきた。設計活動はもちろん、国内外における集合住宅の調査・研究を重ねており、その見識はとても深い。代表作の一つ「SHAREyaraicho」は、新築シェアハウスの先駆けであり、住まうことに新しい選択肢を示した。
「住宅とは本来、社会的な空間を内包するもの」とし、常に意識しているのは社会との接点をデザインすることだ。
そして現在は、自身の母校である日本女子大学の学長として、次代の育成と、そのための環境づくりにも力を尽くす。何役もの重責を担いながらも、〝篠原のデザイン〞は常にチャレンジングだ。

設計の道で生きていく。大学院で学びを深め、28歳の時に独立

 4年生大学を卒業した女性が就職するのは、まだ何かと壁があった時代である。就職事情がよくなかったのに加え、「住むこと、建築のことをもう少し考えたい」と思っていた篠原は、そのまま大学院に進学。建築家・研究者として、やはり住居建築に力を尽くした高橋公子氏に師事する。「世界がパッと広がった」と語るように、この2年間、篠原は有意義な時を過ごした。

 学部時代は覚えなきゃいけないこと、こなさなきゃいけないことで精一杯でしたからね。もっと「建築を考える」時間がほしかった。当時、大学院に進むというのは、道としては研究者になるか設計者になるか、だったんですけど、私は設計の道で勝負したかったのです。師事した高橋先生は、女性建築家を育てることに大変な情熱を持っていたから、その点では、非常に実践的な教育をしてくださった。先生の事務所の仕事も手伝わせてもらったし、現場にもよく同行しました。とても厳しかったけれど、私たち教え子に懸ける思いが十分に伝わってきたから、応えようと頑張れたのだと思います。

世界が広がったという意味では、設計事務所のアモルフに出入りしたことが大きいですね。アルバイトするなかで、代表の竹山聖さんをはじめとする錚々たるメンバーと出会い、建築の話をしたり、一緒に遊びに行ったり……とても楽しかった。ちなみに、パートナーである隈研吾と知り合ったのも、アモルフとの縁からです。この間にはたくさんの本を読んだし、修士論文を書くにあたっては、いろんな作品を分析して理論立てて考えるという、非常に有意義なトレーニングを積むことができたと思っています。

修了後は香山アトリエに入所し、2年間お世話になりました。香山壽夫先生を知ったのは大学院での授業だったんですけど、建築を理論的に語る方で、すごくいいなと。聞けば、スタッフ募集中で、迷わず手を挙げたのです。年上の人が多くて男性ばかりだったから、入所した時は文字どおり紅一点の状態。とはいえ、基本的にはリベラルな環境で、早くから設計をさせてもらったし、科学万博つくばの現場に出向いたのもいい経験になりました。でも、時々「若い女性だから」とカバーしてもらうこともあって。例えば、確認申請を出しに行く時、事前に上司がわざわざ電話を入れてくれていたとか。私は女子校・女子大という環境で、女性だからと大切にされるという経験がなく、こと大学では厳しく鍛えられましたからね、新鮮ではありました(笑)。

 結婚を機に退職し、その後は出産もあって1年間ほど現場を離れた篠原だったが、復帰は早く、1986年には空間研究所を設立している。しばらくの間は、息子を母親に預け、週末だけ千葉の実家に帰るという生活を続けながら仕事に臨んだ。初期の作品には「キヨサト閣」「東金市立嶺南幼稚園」、初コンペで優秀作1席に選ばれた「大阪府営泉大津なぎさ住宅」などがある

 当時、結婚や出産を経て働き続ける女性は半分くらいだったと記憶しています。私の場合、転職は考えていなかったし、自分でやってみるかと。もっとも、母が助けてくれたからできたことです。実家に息子を預け、彼が小学校に上がるまで単身赴任のような生活を繰り返していました。いわば〝托卵〞です(笑)。私にとって働き続けるのは自然なことで、何も考えていなかったのか、楽天的だったのか……。でも、建築家を続けていくには、基本的に楽天的でないとダメなんじゃないかと思うんですよ。さらにいえば、小心な楽天家。繊細に考えるべき場面はあるけれど、「最後はどうにかなる」という〝開き直り〞も、時には大切です。

振り返ると、今の仕事に通じる原点となったのは「コルテ松波」ですね。2棟が中庭を囲む形のワンルームマンションで、最初は社員寮として使用されていましたが、後に個別の賃貸になった時にリノベーションしました。ワンルームマンションって、利回りが確保できれば、基本何をやってもOKという話が多く、建築を好きにできたからすごく面白かった。単なる建築だけでなく、人と人との関係性づくりに取り組んだ最初の仕事です。施主の思いを受け止めてつくり込まなければならない個人住宅とは対極的で、こういった建物が、後にデザイナーズマンションと呼ばれるようになったわけです。

この時に、1階の3部屋をコモンスペースに変えたり、外部を引き込みながら公私の境界を緩くしたりといった仕掛けをしたんですね。すると、徐々に住人同士や地域との交流が生まれ、それが建物に表情を与えるようになっていったのです。実感したのは、「コモンスペースがあると何かが起きる」。人と人との関係に建築がかかわるとしたら、そこに繊細な考えや仕掛けが必要だという、当たり前のことに気づいたわけです。その後のシェアハウスにつながるきっかけとなった仕事でした。

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実務家教員として、「設計」と「調査」を両輪に活動する

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PROFILE

篠原聡子

篠原聡子
Satoko Shinohara

1958年9月3日 千葉県東金市生まれ
1981年3月 日本女子大学家政学部 住居学科卒業
1983年3月 日本女子大学大学院 修士課程修了
4月 香山アトリエ入所
1986年5月 空間研究所設立
1997年4月 日本女子大学 住居学科専任講師
2001年4月 日本女子大学 住居学科助教授
2010年4月 日本女子大学住居学科教授
2013年4月 日本建築学会建築雑誌 編集長(~15年)
2014年6月 野村不動産 ホールディングス株式会社 社外取締役(~20年)
2020年5月 日本女子大学学長
家族構成=夫、息子1人

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