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Architect's magazine

その地域や人々が持つ固有の魅力を 読み取り、浮かび上がらせていく。 それが建築の使命であるべきだし、 また、最大の魅力でもある

その地域や人々が持つ固有の魅力を 読み取り、浮かび上がらせていく。 それが建築の使命であるべきだし、 また、最大の魅力でもある

千葉 学

「そこが素晴らしい敷地だったことは、その家が建てられるまで誰も気づかなかった」。千葉学は、このフランク・ロイド・ライトの言葉を好む。建築には本来、その土地、土地に根づく歴史や、営まれている活動の魅力を浮き彫りにする力があると考えるからだ。千葉が携わる領域は、住宅、商業・公共建築、大学施設など幅広いが、作品すべてに共通しているのは、その環境の魅力をあぶり出すことへのこだわりである。だから、自分のスタイルには固執しない。常に〝そこにできる建築〞のありようを根本から考え、腐心する。千葉のスタイルは、建築家として踏み出した時から変わっていない。

充実の院生時代を経て、組織設計事務所へ。そして、自分の足で立つ

建築の歴史的背景や、建築そのものの意味をさらに学びたいと考えた千葉は、そのまま東大大学院に歩を進める。一度は試験に落ちて留年したものの、2年目には、当初より狙っていた香山研究室に入ることが叶った。当時の研究室には個性的な人材が多く集まっており、「濃密で、非常に恵まれた2年間だった」と千葉は振り返る。

話は前後しますが、僕、卒業設計は失敗したんですよ。やりたいことは見えていて、この頃から興味を持っていたのは、建築本体というより、建築によって生まれる外部空間と隙間でした。卑近な例を挙げると、かつて東京体育館の裏側にあった長い擁壁。テニスの壁打ち場として有名だったんですけど、それは、土木の擁壁としてつくられたものを、人々が壁打ち場としての〝使い方〞を見つけて生まれた特異な場所です。そういう計算されずに生まれた公共空間というか、都市が持つ隙間のようなものを残したくて、卒業設計に臨んだのです。「都市にヴォイドを」と題して。でも、当時の日本にはランドスケープという言葉もなかったし、考えが具体像にならないまま不完全燃焼で終わってしまった。

それが香山研に入ってから、線がつながったような気がするんです。周囲には面白い人たちがたくさんいて、とてつもない知識量を持つ先輩や、「ランドスケープを勉強してくる」と、アメリカに留学した人とかね。この時に、僕はランドスケープという領域があることを知ったのです。

研究室時代で強く記憶に残っているのは、香山先生と共に、皆でアメリカの住宅地調査に出向いたこと。1カ月半かけて、アメリカのほぼ全土を回ったという壮絶な旅です(笑)。日の出から日没まで建築を見続け、道中議論を交わしながら過ごす日々は、本当に刺激的でした。この頃は、アメリカ建築はヨーロッパのイミテーションだと評されていた時代です。でも、香山先生の視点は違っていて、ヨーロッパ建築が、アメリカの気候風土や文化のなかでどう変形してきたか、そこにこそデザインの面白さがあると。だから建物ばかりではなく、田園思想や都市計画に基づいてつくられた町も広く捉え見ることができた。もともと、外部との関係性に興味を持っていた僕としては、そういうヴァナキュラーなもののほうが印象深かったですね。そんな経験やメンバーに恵まれ、僕は、実に有意義な院生時代を過ごしたのです。

就職先として選んだのは、意外にもアトリエ系ではなく、大手の組織設計事務所・日本設計である。あえて〝色のないところ〞に身を置こうと考えたのと、同社が沖縄に建てた「熱帯ドリームセンター」にランドスケープ・デザインの魅力を感じたからだ。世はバブル経済真っ直中。入社早々から重宝がられた千葉は、スケールの大きなプロジェクトに携わるようになる。

「君は大きなプロジェクトに向いている」と、なぜか勝手に思われて(笑)。日本設計で大きな計画の話が出ると、すぐに呼ばれるという感じでした。入社2年目から始めたのが品川インターシティで、結論から言うと、僕の在籍中には現場が動かなかったんですけど、6年間かかわり続けた仕事です。港区港南にプレハブ小屋を建て、そこを設計室にしてずっと詰めていました。

全体像をどうするかのマスタープランを描き、山のような案や模型をつくり、そして皆で議論する。来る日も来る日も、そういうことをしていた。僕は、日本設計に居ながらにして「超高層反対」と言い続けていたんです。品川の敷地の長さは500mほどあって、ならばその長さの建物をつくり、超高層をバタッと倒したような中層の建物にしたら面白いんじゃないかって。新しい都市のあり方を求めて、本当にたくさんの絵を描きました。でも結局、途中で用途地域の見直しがあって振り出しに戻ったりと、かかわっていた6年間には何も建たなかった。このプロジェクト、僕が辞めたら動き出したんですよ(笑)。

辞めようかと考えたのは、このまま「建たない建築家」になることへの危機感があったからです。バブルという背景もありますが、僕らのような若手が外注さんを抱え、いきなり巨匠みたいな立ち位置になるのも変な話で、やっぱりゼロから現場まで、ちゃんとやるのが本来の仕事でしょう、という思いもあった。そんな頃、たまたま住宅の依頼を受け、東大のキャンパス計画室の助手にならないか、という話もいただいたので、それを機に独立することにしたのです。

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環境に呼応する建築。時を経て顕在化された千葉流スタイル

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PROFILE

千葉 学

千葉 学

1960年7月6日 東京都世田谷区生まれ

1985年3月 東京大学工学部建築学科卒業

1987年3月 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了

1987年4月 株式会社日本設計入社

1993年4月 ファクター エヌ アソシエイツ 共同主宰

1993年~96年 東京大学工学部キャンパス 計画室 助手

1998年~2001年 東京大学工学部建築学科安藤研究室 助手

2001年5月 千葉学建築計画事務所設立

現在 東京大学大学院工学系研究科 建築学専攻 教授

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