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Architect's magazine

多くの人が新しい体験や気づきを 得られるような場、ものをつくりたい。 そのために必要なことは 何でもチャレンジする

多くの人が新しい体験や気づきを 得られるような場、ものをつくりたい。 そのために必要なことは 何でもチャレンジする

永山祐子

 26歳の時、若くして独立した永山祐子は、住宅はもちろん商業施設の空間設計、話題の大型プロジェクトなど、スピード感をもってその活躍の場を広げてきた。代表的なプロジェクトに「LOUIS VUITTON京都大丸店」「豊島横尾館」などがあり、近年のものとしては「ドバイ国際博覧会日本館」や「東急歌舞伎町タワー」が挙げられる。とりわけ光のデザインに定評がある永山だが、素材のポテンシャルを引き出し、新しい現象を起こすというチャレンジングな取り組みが印象的だ。「建築は未来を描く仕事」だと定義する永山にとって、〝チャレンジ〞は極めて重要な支柱となっている。

様々なインプットを得て、アトリエ系事務所へ。建築の道を邁進する

 昭和女子大学に進学してから、永山は自分の方向性や可能性を模索するかのように、実によく動いている。大学生活の前半は積極的に海外の文化に触れ、以降はアートイベントの手伝いをしたり、様々な分野のクリエイターと活動をともにしたりと、大学以外の世界とも接点を持つことを心がけてきた。

本取材は、2023年11月22日(水)、永山祐子建築設計の本社オフィス(東京都新宿区)で行われた。現在、16名の所員が在籍。笑顔の絶えない明るい風土が根づいている

 どこかで、もっと外の世界を知るべきだという危機感があって、インプットを求めていたのだと思います。1、2年の頃、授業や課題の合間を縫って参加していたのが日仏青年会議の活動で、大学を超えた有志によるサークルみたいなもの。父の出張について訪れたヨーロッパが魅力的で、文化や建築群に興味を持ったのがきっかけでした。メンバーにはグローバルな環境で育った大学生が多く、刺激的でしたし、数々の海外文化に触れられたことも貴重な経験になりました。この時仲良くなった友達の両親がアブダビに住んでいたことから、冬休みの1カ月ほど滞在させていただいたのですが、これがドバイ万博につながるきっかけにもなっていたり――人生って本当に面白いですね。

 それから興味を持ったのが舞台美術。この頃はテンポの速い表現に憧れていたのです。建築って、完成するまでに長い年月を要するでしょう。考えは進化するから、完成時に「これだ」と確信を持って言えるのかなぁと。その点、舞台美術の表現は瞬間的で、反応もその場で返ってくる。そんな現場を知りたくて参加したのが、舞踊家である田中泯さんが始めたアートキャンプ白州でした。南アルプスの麓で、建築家、音楽家、文化人などといった様々なアーティストとともに参加した野外プロジェクトは、今でも印象深いです。

 でも結局、「私の居場所はここではない」と思い至りまして。田中泯さんと能楽師・観世栄夫さんの二人芝居を手伝った時のこと。舞台が人間力というか、お二人の圧倒的な存在感でもって完成されているのを目の当たりにして、もはや小道具や美術などによる表現は必要ないと感じたのです。それぐらいすごかった。で、舞台美術からは〝下山〞したわけです(笑)。

 建築が本当に面白いと思うようになったのは3年になってからですね。オープンデスクで、アトリエ設計事務所のシーラカンスに行ったのが大きかったです。面白い人がたくさんいて、何より仕事に対する姿勢を通じて、私が建築に感じていたタイムラグは幻想だったと知りました。何年もかけてものをつくり上げていくプロセスはすごく緻密だし、更新しながら、完成する最後の瞬間まで考え抜く。素晴らしいと思い、私はやっぱり建築なんだ!と。それからは、文字どおり邁進です。

 大学院に進む選択肢もあったが、「早く実務経験を積みたい」と考えた永山は、アトリエ系事務所への就職を望んだ。面接やトライアル期間を経て採用となったのは青木淳建築計画事務所で、「とてもラッキーでした」。ここで4年間、永山は生活のすべてを仕事に注ぎ込み、確かな基盤を築いていく。

 当時の青木事務所には「スタッフは4年で卒業」というルールがあったんです。もちろん最初に聞いていたので、ある意味、大学に入り直す感覚で、とにかく懸命に学び、働こうと覚悟は決めていました。早々に住宅を担当させてもらったり、青森県立美術館を手伝ったり、本当に大変で……というか、家には帰れなかった(笑)。デスクの下で寝泊まりする日も珍しくなく、まさに建築一色の世界。のめり込みました。事務所には同世代が多かったから、各人が携わるプロジェクトについての意見交換も盛んで、私にとっては本当に大学のような感じでした。ものづくりに徹底的に集中したこの期間は、間違いなく今の糧になっています。

 4年で卒業したあとは、せっかく実務経験を積んだのだから、まずは一級建築士の資格を取ろうと考えて受験生活に入ったんです。でも、ものをつくらず勉強だけする日々は、何ともつまらなくて。そんな気分の頃です、青木さんから「仕事があるけど、やる?」と連絡があったのは。美容院の内装の仕事で、「やります!」と即答。とはいえ、実家で仕事をするのもなぁと思い、事務所を構えて独立したというわけです。近くに安い賃貸物件を見つけ、連絡をもらってから1週間後には事務所オープンという速攻ぶりでした(笑)。

 最初は一人だし、26歳と若かったし、会社を相手にした打ち合わせや提案は本当に大変でしたね。わからないことだらけで、緊張もしていたから、クライアントからは頼りなく見えたこともあったと思います。空間デザインを学んでいた妹や、大学の後輩たちにスタッフとして手伝ってもらいながら、一つひとつ越えてきた感じです。

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新進気鋭の建築家としてチャレンジを重ね、〝永山イズム〞を構築

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PROFILE

永山祐子

永山祐子
Yuko Nagayama

1975年12月18日 東京都杉並区生まれ
1998年3月 昭和女子大学
生活科学部生活美学科卒業
4月 青木淳建築計画事務所入所
2002年4月 永山祐子建築設計設立
家族構成=夫、息子1人、娘1人

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