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SDGsすべての項目にかかわる 建築を取り巻く活動は、多彩にある。 何をしたいのか、長期的な目標を 持って自分の道を歩んでほしい

SDGsすべての項目にかかわる 建築を取り巻く活動は、多彩にある。 何をしたいのか、長期的な目標を 持って自分の道を歩んでほしい

国広ジョージ

 東京生まれの日系三世で、アメリカ在住歴33年。日米双方の文化を併せ持つ国広ジョージは、国際的な建築家として多彩な活動を紡いできた。1983年にロサンゼルスで事務所を構えたのを皮切りに、アメリカはもとより日本においても幅広く設計活動を展開。主に住宅や商業施設を手がけてきた。日本に拠点を移したのは46歳の時で、以降はアジア地域を主戦場としている。通じてプロフェッサー・アーキテクトとしてのキャリアも長く、数々の大学で次代の建築家育成に貢献。さらに環境問題に代表されるような社会活動にも熱心に取り組む国広は、建築家というより〝建築にまつわるすべての活動家〞と称したほうがふさわしい。

今も息づく師たちの教え。紆余曲折を経て、建築家として踏み出す

 大学卒業後、国広は「よりすごい意匠設計」を求めて、ハーバード大学大学院デザインスクールに進学する。同大学院では巨匠ル・コルビュジエの門弟であるジョセフ・ザレフスキー教授などに師事。大学、大学院を通じて出会った師たちは刺激的で、国広に大きな影響をもたらしたという。

 振り返ってみると、僕は素晴らしい先生方に恵まれたから建築が好きになったし、今の自分をつくってくれたのだと思います。僕の人生テーマの一つに〝旅〞があるのは、大学1年の時に建築史を教えてもらったスピロ・コストフ教授の影響が大きい。情熱を込めて講義をする先生でね。彼が熱く語るギリシャ、ローマ時代の建築を「見に行かなきゃ」と旅をしたのが19歳の夏。友達と一緒にバックパックを背負ってヨーロッパを巡り、3カ月で16カ国を訪ねました。コストフ先生が教えてくれた建築に触れ、パリなど各国の主要都市では絵画も鑑賞してと、とても貴重な体験になった。それから毎年夏休みには旅をするようになり、京都や広島など、日本の建築も見て回ったんですよ。コルビュジエのいにしえの旅みたいなもので、これは「しなきゃいけないこと」として、今は僕が学生たちに伝えています。

建築人類学でいえばJ・B・ジャクソン教授。言うなれば「平凡」「日常」の大切さを可視化してくれた先生です。当たり前に存在するものって、普段意識しないでしょう。でもジャクソン先生は、例えばルート脇にガソリンスタンドがあったり、モーテルが建っていたりという風景、その機能性や美しさについてたくさん講義してくださった。腑に落ちることが多々あって、僕が平
凡というものにすごく興味を持つようになったのは、ここからです。

もう一人。大学院で師事したザレフスキー先生も印象に強いですね。普通、エスキースでは何かしらのアドバイスがあるものですが、この先生はとにかく何も言わない。ある時など、僕が描いたスケッチに突然トレペを載せて、ずっとブツブツ言いながら作業している……要は自分で設計しちゃってるんですよ(笑)。こういう時は頭にきたけれど、学んだことがあります。若い頃はとかく自我を出したがるというか、自分の設計はアピールしたいものです。でも、〝我〞だけではいい設計ができないことを先生は教えていたのかなと。設計に対する姿勢や、「歴史」「平凡」といったキーワードは、今も僕のなかで息づいています。

 聞けば、国広は日本での就職を考えていたという。実際、〝就活〞した先は槇総合計画事務所のみだった。そして、一旦は叶う……と思われた就職だったが、70年代のオイルショックによる景気悪化で話が流れてしまう。タイミングを逸した国広が就いた職は、実にタクシードライバーだった。

 ハーバードを出ると、だいたい有名な建築家の事務所に入れるんですけど、そのままボストンにいたら、環境としては代わり映えしないわけですよ。どうしようかと具体的に就職を考え始めた頃、折しも、講演会で日本から来られた槇文彦先生とお会いする機会があったのです。同じ大学院で学ばれた先生ですし、「ぜひ面接を」とお願いしたら「じゃあ、いらっしゃい」と。で、夏休みに日本で面接をしてもらって戻ったのですが、そこから待つこと約2年。世界的な景気悪化でしたから、最終的には「申し訳ない」という話になって就職できませんでした。

待っている間に始めたのがタクシードライバーで、これが僕の初職。ついに〝操縦系〞ですよ(笑)。楽しかったですねぇ。街を全部知っていることが爽快で、どこへでもスムーズに車を走らせたものです。それと、タクシー業界には様々な人種やワケありの人たちもいるから、社会の縮図を見ているようだった。大して稼げなかったけれど、いい人生勉強になりました。

その後、同級生が勤めていた設計事務所に就職したり、パートナーシップで事務所を設立したりしながら修業を重ね、83年にロサンゼルスで独立しました。いくつか仕事をするなか、転機になったのは「ラ・プティート・チャヤ」。クライアントはのちにスターバックスを日本に持ち込んだ角田雄二さんと、彼の弟でサザビー(当時)の創業者でもある鈴木陸三さん。ロスでレストランをやるというので、僕が紹介を受けて設計をしたものです。これがロス初のフュージョンレストランとして注目され、建築雑誌にも取り上げられたことでデビューできたかなと。僕は日本で働いた経験がなかったから、この時に日本の仕事流儀を学んだのも大きかったですね。

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日米双方において、国際的な設計活動や建築家育成などに勤しむ

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PROFILE

国広ジョージ

国広ジョージ
George Kunihiro

 

1951年東京都文京区生まれ
1974年カリフォルニア大学バークレー校  環境デザイン学部卒業
1976年ハーバード大学大学院 デザインスクール修士修了
1983年George Kunihiro Architect開設 (ロサンゼルス)
1987年同事務所をニューヨークにて開設
1998年ジョージ国広建築都市研究所設立(東京)国士舘大学工学部助教授
2001年東京大学大学院工学研究科博士課程満期退学
2003年国士舘大学工学部(現理工学部)教授(~22年)
2011年清華大学(中国)客員教授(現任)
2013年株式会社ティーライフ環境ラボに参画
2019年明治大学特別招聘教授(~21年)
2022年アリンインターナショナル株式会社顧問
その他役職

日本建築家協会副会長(2006年)、
AIA(アメリカ建築家協会)フェロー(2008年)、
ARCASIA(アジア建築家評議会)会長(2011~12年)、
「UIA(国際建築家連合)2011東京」
第24回世界建築会議日本組織委員会広報部会長(2002~11年)、
AIA国際理事(2013~15年)、
AIA日本支部会長(2016年)、
ARCASIA執行部アドバイザー(2017~18年)
ほか多数

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