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建築技術よりもイマジネーションが大切。それを弾力的にするには、国外にも出て、視野を拡大するといい

建築技術よりもイマジネーションが大切。それを弾力的にするには、国外にも出て、視野を拡大するといい

竹山実建築綜合研究所

竹山実の建築家人生は50年を超える。その軌跡は、アメリカ、デンマークのアトリエで実務に就いたのを起点とし、当時としては珍しいワールドワイドな修業遍歴から始まっている。帰国して「竹山実建築綜合研究所」を開設したのが30歳の時。今も固有の美を放つ、新宿歌舞伎町の商業ビル「一番館」「二番館」を発表したのは、独立して間もない頃だ。とりわけ一番館は、日本にまだポスト・モダンという言葉が存在しなかった時代に誕生した衝撃的な建築物で、竹山は、その先駆的な存在として注目を集めた。しかし、長年にわたって生み出されてきた竹山の作品は、どれも一様ではない。自身の視点で、常に変化する時代を捉え、人の心に寄り添う"ものづくり"に腐心してきたからだ。傘寿を迎えた今も、変化をいとわない竹山はとてもリべラルで、旺盛な探究心を持ち続けている。

帰国後、事務所を開設。ポスト・モダンの旗手として名を馳せる

 64年、通算5年の“武者修行”を30歳終えて帰国した竹山は、ちょうど30歳になっていた。戻ってみると、国内経済は大きく様変わりしていた。東京オリンピックが開催された年で、いわゆる「いざなぎ景気」に突入、日本は右肩上がりの経済成長を描き始めていたのである。竹山は、表参道に小さなアトリエを構え、建築家として活動を始めた。

 仕事があるということ、そして実際にデザインしたものが建つということに興奮した時代です。ただ僕は、帰国早々に独立したものの、日本の設計事務所に勤めた経験がないし、そもそもどうやったら仕事がくるのかわからなかった(笑)。

芦原義信さんに誘われて、武蔵野美術大学の建築学科の創設に携わったり、知り合いの建築家が紹介してくれた飲食店や店舗のインテリア・デザインの仕事をしたり、そんなスタートでした。そのクライアントの関係で、個人住宅をつくるようになり、そして「一番館」「二番館」へと仕事の幅が広がっていったのです。

この頃の歌舞伎町は、今ほど人が集まる場所じゃなかったけれど、昔、朝まで酒を飲んでいた自分の経験を踏まえると、“賑わい”の予感はあった。自ずと出てきたイメージをかたちにしたら、けっこう評判になったみたいで。二番館のほうは、粟津潔さんというグラフィックデザイナーと組んで、当時としては「まさか建つとは思わなかった」面白いものができたと思いますね。現在は全然違うものになっていますが、あの外壁、ペンキだったんですよ。毎年塗り替えられるようにと。でも実際には「金がかかってたまらん」っていう話になっちゃったんだけど(笑)。

 30代半ば頃、精力的に仕事に向き合うなか、竹山は突然病に襲われた。くも膜下出血だった。開頭手術を受け、命は取り留めたものの、その後は静養生活を送るために、故郷の札幌に戻っている。「世界が激しく揺れ動いている時に、身体的な活動のエネルギーを最小限に抑えなければならない運命を嘆いた」。しかしこの地でまた、竹山は印象的な作品群を生み出している。

 事務所はスタッフに任せるかたちにして、札幌に戻ったのですが、しばらくすると退屈になってきて。実家の一部をアトリエにして仕事を再開し、長らく東京と行き来する2拠点体制でやっていました。

北海道というのは、まだ建築文化がさほど定着していなかったから、自分としては、けっこう記号性のあるものができたと思っています。苫小牧の「ホテルビバリートム」とか「ペプシ工場」とか。残念ながら、ほとんど残っていないんですけど……。

日本の建築って、ヨーロッパのように大切に引き継がれていくものではなく、機能や効率といった側面が大きくなりすぎていますよね。僕が記号性、換言すれば物語性というものを意識するようになったのは、この頃からだったと思います。一時的にスポットライトを浴びる過度期的なものではなく、創造性に富んで末永く語られる“物語”。僕の場合は、あらかじめ自分の意図を持ってやるというより、つくりながら考えが熟していくタイプでしょうか。小説でいうなら、結末まで考えてから書くのか、書き出してから結末を迎えるか。僕は明らかに後者ですね。

だから、強いこだわりというものはなく、つくるものがその都度違う。仕事に絡めて、余計なものをいろいろ見て歩くのが好きなんですよ。例えば、味覚糖の奈良工場。僕にとって奈良は遠い地でしたが、通うなかで現地の魅力を知り、食べ物の美味しさに触れる。古事記に関連するような神社を訪ねて学んでみたりね。そうして初めて物語性というものが自分のなかに生まれ、建築ができていくのです。余計なものがいっぱいくっついている状態、それが面白いんですよ、僕にとっては。

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建築の文化的価値が上がる時代――その到来を願いながら

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PROFILE

竹山 実

竹山 実
Minoru Takeyama
1934年3月15日 北海道札幌市生まれ
1956年3月 早稲田大学第一理工学部建築学科卒業
1958年4月 早稲田大学理工科系大学院修了
1960年5月 ハーバード大学大学院修了主にボストン、
 ニューヨークの建築設計事務所に
勤務(~1962年)
1962年5月 主にデンマークの建築家の事務所、
 デンマーク王立アカデミー建築学科に勤務
1964年4月 竹山実建築綜合研究所開設
1965年4月 武蔵野美術大学助教授・教授(~2003年)
2004年4月 武蔵野美術大学名誉教授
主な著書

『街路の意味』(鹿島出版会:1977)

『建築のことば』(鹿島出版会:1984)

『ポストボダニズム』(C.ジェンクス訳:1987)『竹山実建築録』(六耀社:2000)

『そうだ建築をやろう』(彰国社:2003)

『ぼくの居場所』(インデックスコミュニケーションズ:2006)

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