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建物自体が人に「I love you」と言っているような感覚の建築。フォルムの美しさより、人々の活動や暮らしをどう良くしていくかという大きな視点が大切だと思う

建物自体が人に「I love you」と言っているような感覚の建築。フォルムの美しさより、人々の活動や暮らしをどう良くしていくかという大きな視点が大切だと思う

トム・ヘネガン

「いつか日本に行く」。そう心に決めていたトム・ヘネガンが初めて来日したのは1990年。直後に手がけた「草地畜産研究所畜舎」では日本建築学会賞を受賞し、以降も、「ハイヅカ湖畔の森バンガロー」「ほたるいかミュージアム」「フォレストパークあだたら」などといった公共建築で数々の賞を手にしている。いつも「これが最後」と思いながら、真摯にプロジェクトに向き合ってきた結果だ。現在、東京藝術大学で教鞭を執るヘネガンは、母国・イギリスやオーストラリアなどにおいても、長きにわたって建築教育に力を注いできた。「建築は人々の生活をより良く、豊かにしていくためにある」――国や時代を超えて、彼は今日もその〝大志〞を伝え続けている。

新しい人生を求めて来日。多くの公共建築を精力的に手がける

「あなたのもとで働きたい」。日本に行くために、ヘネガンは手紙をしたためた。送り先は、伊東豊雄氏。かつてレクチャーのためにAAスクールを訪れた伊東氏の人柄に惹かれ、日本への入口を同氏に求めたのである。そして実際、機会を得て、ヘネガンは日本で活躍するようになる。
「私の事務所で働くのではなく、仕事を一つ提供するから、それをやりに日本に来てください」。そういうお返事でした。あまりに素晴らしい内容で、最初は信じられず、友達が伊東さんのフリをして私にいたずらしたと思ったくらい。ただ残念なことに、私はこのタイミングで父を亡くしたので、実際に来日したのは1年後の90年でした。なので、くだんの仕事は実現しなかったのですが、それでも伊東さんは「訪ねるべき人」として八束はじめさんを紹介してくださった。そして私は、日本で大きな第一歩を踏み出すことができたのです。

その第一歩が、熊本県の事業「くまもとアートポリス」プロジェクトの一つである「草地畜産研究所畜舎」。八束さんにお会いした時、「あなたの実作としては何がありますか?」と聞かれましてね、実は、このやりとりが畜舎の仕事のきっかけになったのです。AAスクールで教えていた時代にもデザインはしていたけれど、当時のロンドンには新築案件自体がほとんどなかった。私の実作として紹介できたのは「動物のための集合住宅」だったのですが、意外にも八束さんはとても喜んでくれまして。「ちょうど熊本で動物関係のプロジェクトがある」というところから、仕事が始まったんですよ。

くまもとアートポリスの重要な点は、建物自体が展示物でもあるということなので、畜産施設としての機能追求はもちろんのこと、阿蘇山がたたえる雄大な自然に溶け込むような建物群を計画しようと心がけました。敷地が国立公園のなかにあるため、非常に厳しい規制に苦しみましたが、あらゆる可能性を考え抜いて設計したつもりです。正直、〝傑作〞だとは言い切れませんが、結果的に日本建築学会賞というかたちで評価されたのはうれしかったですね。

来日して間もなく、ヘネガンは仕事で縁ができた安藤和浩氏と共に「アーキテクチャー・ファクトリー」を設立し、ここを足場に活動した。とはいえ、「畜舎のあとは仕事がないだろうから」と、ヨーロッパに戻ることも考えていたという。だが実際には、学会賞受賞という実績が追い風にもなり、90年代から2000年代にかけて、集中的に公共建築を手がけることとなった。

受賞したことで逆に、「小さな仕事には興味がないと思って依頼をやめました」なんて話もけっこうあったんですよ。「いやいや、どんな仕事でもやりたいです」と。さて、受賞は利点があったのかどうか(笑)。

この時代で一番印象に残っているのは「ハイヅカ湖畔の森バンガロー」です。実はこれ、夜通し一晩でデザインしたものなんですよ。広島現地にまで行く余裕がなかったこともありますが、森があって斜面があってと、その敷地からすぐにインスピレーションがわいたのです。先の畜舎では、アイデアを対立させながら「図面を描いては捨て」の繰り返しだったけれど、時に、こういう突然のひらめきから納得のいくものが生まれることもある。

逆に大変だったというか、やりにくかった仕事は「ほたるいかミュージアム」。発注側の要求としては、建築とインテリアを分けてデザインすることだったので、我々はプロジェクト全体をコントロールすることができなかった。なので、あの建物は我々だけのデザインではないし、インテリアに関しては残念な思いが残っています。

確かに公共事業の場合、往々にして発注者側はタフなものです。でも、だからといってそこに異を唱えるつもりはありません。建築家がすべきことは、一つひとつの仕事にベストを尽くすことだから、仮に対立するような場面があっても、それは物事を良くしていくためのプロセスになるので、むしろOKな話。だから私は、いつも「これが最後」と思いながら、正直に仕事をしてきました。

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PROFILE

トム・ヘネガン

トム・ヘネガン

1951年 英国ロンドン市生まれ
1975年 AAスクール修了
構造設計事務所アラップ社勤務
1976年 AAスクール
ユニットマスター(教授~89年)
1982年 アリッソン+ピーター・スミッソン
建築事務所勤務
1985年 ロンドンにて個人事務所を設立
1990年 東京にて
アーキテクチャー・ファクトリーを設立
1991年 東京藝術大学招聘教授(~94年)
1998年 工学院大学工学部建築学科
特別専任教授(~02年)
2002年 シドニー大学建築・デザイン・
都市計画学部長
2009年 東京藝術大学美術学部建築科教授

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