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Architect's magazine

常に新しい時代の要請に応え、空間環境の創造とその価値のマネジメントに尽くす。<br/>そういう社会に貢献する建築家の価値は、永遠のものである

常に新しい時代の要請に応え、空間環境の創造とその価値のマネジメントに尽くす。
そういう社会に貢献する建築家の価値は、永遠のものである

六鹿正治

建築を学び始めた頃から、都市的スケールの建築群や都市デザインに強い関心を寄せていた六鹿正治は、そのまま真っ直ぐに、この領域を歩んできた。日本設計を足場に40年、六鹿のプロフェッショナル人生は、常に時代を見据えた都市計画、都市デザインの創造と共にある。代表作には「徳島県庁舎」「汐留シティセンターB街区」「日本橋三井タワー」など先駆的なものが多く、なかでも10年の歳月を要した「新宿アイランド」は、六鹿の真骨頂ともいうべき作品だ。「自分たちが生きる世界の〝かたち〞をつくっていく。これほどワクワクする職業はない」――建築群と環境、そして人々の営みや感覚、それらすべてに思いを馳せてきた、六鹿ならではの言葉である。

体力・気力の限りを尽くし、仕事に没頭。数々の意欲作を世に出す

建築設計部に移った六鹿は、猛烈な仕事ぶりを発揮する。「如水会館外装デザイン」や「徳島県庁舎」など初期よりコンペで白星を挙げ、また、インテリジェントビルやウォーターフロント開発といった、当時としては先駆け的なプロジェクトも数々手がけてきた。

徳島県庁舎は若手数人で臨んだコンペでしたが、首尾よく勝つことができました。川沿いに庁舎群がリニアに展開するつくりを提案し、実施設計まで参加したものです。旧庁舎と同様の褐色のスクラッチタイルを外装に使っていて、30年以上経った今も頼もしい存在感がある。見ると安心しますね。

責任者としての最初の仕事は、隅田川沿いに建つ大型の「興和住生築地ビル」。保守的なクライアントだったんですけど、箱ではない超高層を総合設計で提案したんですよ。やりたい一心、若気の至りで。当時、アメリカで流行りだしていた超高層をギザギザにする感じにしたかった。使い勝手の問題があるので、そこは工夫を重ねてクリアしましたが、もめたのは外装の色。ウォーターフロントだから、「ビーナス誕生」みたいなイメージで爽やかな色にしたかったのですが、クライアントが絶対にダメだと。それでも主張し続けていたら、「担当を下りてもらう」と言われ……最終的にはあの赤茶色になったというわけです。でも何か悔しいから、周りには「あれは柿右衛門の赤を目指した」なんて言ったものです(笑)。

この頃は、本当にめいっぱい仕事をしていました。毎土曜日の午前中、仕事仲間とのテニスだけは欠かさなかったけれど、休日も家で翻訳や執筆をするという仕事漬けの生活。それでも楽しかったのですが、やはりツケは回るもので、僕は疲労で2回倒れちゃった。1カ月ずつの完全ダウン。でも、おかげでわかったんですよ。心身のマネジメントに失敗していて、結局は自分で自分を倒しているということを。置かれている状況が難局であっても、どう思うかは自分次第。それは乗り越えられるからこそ天が私に与えて給うた、と。そう悟ってからは、今日に至るまで無事に走り続けています。

「六さん、とりあえずこれも抱えてよ」。86年、そんな言葉から始まったのが「新宿アイランド」だ。これは六鹿がかかわる以前、長きにわたって暗礁に乗り上げていた再開発プロジェクトだったという。一つには、敷地の境界線が規模や用途、雰囲気などの異なる地区に隣接しており、〝扱い〞が非常に難しい土地であったこと。さらに権利者が大小160名を超える再開発であったこと。都市的地形と人々の思いの両面で、このプロジェクトにはあまりに多くの異なる強い力が作用していたのである。

当時としては巨大な24万㎡の設計ですから、ほかの案件は持てません。専任の設計チーフとして結果10年、携わることになった仕事です。チームは本当に若手だけで、しかも少人数。初めは不満でしたが、ある時「これでやれ」という天の配剤だと受け止めたら、その瞬間から力が出て、すごい勢いで頭が働き始めた。不思議なもので、事が成される時には〝成すべき人〞が自然と集まってくるんですよ。設計側にもクライアント側にも、そして様々な関係者側にも。いわゆるシンクロニシティで、同時多発的に事が動くという感覚がありましたね。

この時に考えた再開発の本質は2つ。まずは最初の段階で、あちこちに向いているベクトルをうまく統合すること。次に「痕跡を残さない」こと。というのは、再開発に対する期待や要求は多種多様なわけで、それらは時に対立するでしょう。それぞれの思いを反映させると統合感が出ないし、下手をすると争いの傷だらけのデザインになってしまう。あたかも何もなかったように痕跡を消し、エレガントなデザイン的解決を図る。それが建築家の目指すべき最も高い目標だと考えたのです。

調整や与えられた課題をこなすだけではつまらないから、我々から多くの提案をしました。ここから生まれたのが、今でいうPM(プロジェクト・マネジメント)です。アート計画、広報計画、建築後の建物管理や運営計画案
づくりなど、従前の標準的な建築設計業務にとどまらない多様な業務をカバーするスタイル。日本設計にあるPMグループの基礎になったものです。

なかでも、全体の公共空間計画において重要な位置を占めるアート計画には力を入れました。従来以上のことをやりたくて、アーティストの選定といったプロセスからプロダクトまですべてにかかわっています。後のヴェネチア・ビエンナーレでアート計画を展示した際には大きな反響があり、新宿アイランドも結果としていろんな賞を受賞することができた。隅から隅まで、全部自分がかかわったと言い切れる仕事です。この10年という歳月は、自己の存在を問う作業を重ねる日々でもあったように思います。

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現在と未来を見据えて。建築家と業界全体の支援に尽力する日々

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PROFILE


1948年4月20日 京都市中京区生まれ
1971年6月 東京大学工学部建築学科卒業
1973年3月 東京大学大学院修士課程修了
8月 フルブライト奨学生として渡米
1975年6月 プリンストン大学大学院
建築都市計画学部修士課程修了
1975年9月 エーブレス・シュワルツ都市計画事務所
(ニューヨーク)
1977年2月 槇総合計画事務所入所
1978年2月 株式会社日本設計入社
2001年4月 同社取締役副社長
プロジェクト統括本部長
2006年4月 同社代表取締役社長
2013年10月 同社取締役会長
2017年12月 同社最高顧問

 

公職

日本建築学会副会長(2012年5月~2014年5月)
日本建築家協会会長(2016年6月~)

 

教職

慶應義塾大学理工学部非常勤講師(2002年~2017年)
東京大学工学部都市工学科非常勤講師(2003年~2006年)
京都大学工学部建築学科非常勤講師(2007年~2009年)
早稲田大学、東京大学、京都大学、明治大学などで特別講義

 

主な受賞

日本建築学会賞(新宿アイランド)
BCS賞(新宿アイランド、日本橋三井タワー、
虎ノ門ヒルズ、徳島県庁舎)
ほかグッドデザイン賞、サステナブル建築賞、
日本照明賞、日経ニューオフィス賞など多数

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