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Architect's magazine

常に新しい時代の要請に応え、空間環境の創造とその価値のマネジメントに尽くす。<br/>そういう社会に貢献する建築家の価値は、永遠のものである

常に新しい時代の要請に応え、空間環境の創造とその価値のマネジメントに尽くす。
そういう社会に貢献する建築家の価値は、永遠のものである

六鹿正治

建築を学び始めた頃から、都市的スケールの建築群や都市デザインに強い関心を寄せていた六鹿正治は、そのまま真っ直ぐに、この領域を歩んできた。日本設計を足場に40年、六鹿のプロフェッショナル人生は、常に時代を見据えた都市計画、都市デザインの創造と共にある。代表作には「徳島県庁舎」「汐留シティセンターB街区」「日本橋三井タワー」など先駆的なものが多く、なかでも10年の歳月を要した「新宿アイランド」は、六鹿の真骨頂ともいうべき作品だ。「自分たちが生きる世界の〝かたち〞をつくっていく。これほどワクワクする職業はない」――建築群と環境、そして人々の営みや感覚、それらすべてに思いを馳せてきた、六鹿ならではの言葉である。

アメリカ留学で得た余りある成果を手に、〝現場〞に踏み出す

自ら取りに行った〝一次情報〞を一つひとつ丁寧に取り込み、六鹿は大いに学び続けてきた。その仕上げともいえる機会になったのが、アメリカ留学である。73年、六鹿はフルブライト奨学生として名門・プリンストン大学大学院に入学。本人曰く「四季の美しい環境に耽溺しつつ、修道僧のように勉学に没頭した日々」だった。

大学院修了後、留学するまでに数カ月あったので、その間、どこか有名な設計事務所でバイトしようと考え、最初に電話したのが槇文彦さんのところ。そうしたら、何と槇さんが直接出られて、留学が決まっていることも含めて意向を伝えたところ、「すぐにいらっしゃい」と。びっくりですよ。短い期間でしたけど、沖縄海洋博の水族館のデザインにかかわらせてもらいました。模型をつくりながら「ああでもない、こうでもない」と楽しかったですねぇ。槇さんがすごいのは、若造の提案でも対等に聞いてくださること。先生からバイトまで全員〝さん付け〞で呼び合う、フラットで本当に素晴らしい職場でした。この〝チーム感覚〞は、以降、僕のなかに色濃く残ることになります。

プリンストンでの寮生活は最高でした。アメリカには様々な大学があるけれど、ここを選んだのは、江藤淳の随筆を読んで、プリンストンがいかに静謐かつ自然豊かな環境で、個性を重んじる学風を持つかを知ったからです。期待以上で、四季折々の自然の表情は、それはもう美しい。満たされた環境のなかで、存分に勉学に励みました。授業やスタジオ課題以外にも年間に数本の論文を書き、全米の大学図書館に寄贈される出版論文に選ばれたペーパーもあります。没入すると、表面的にはつらそうでも奥深いところに快楽があるんですよ。いわば修道僧のような心持ち。本当に充足した生活でしたね。

終盤になってからは、システム寄りのことをしていました。当時珍しかったコンピュータ・マッピングで、開発と環境保全を両立させる土地利用計画の手法を提案してみたり。クラスメイトでコンピュータを使える人がほとんどいなかったので、僕の独占状態という環境でした。高い評価もいただき、危うくコンピュータの世界に行きそうになったけれど……。もし、そうしていたら、今頃は世界を動かす富豪になっていたかもしれない(笑)。

マスターを修了した後、六鹿は夏休みを利用して「コロラドの原野でテント生活をする」という環境実地ゼミに参加し、その足でニューヨークへ。都市計画事務所に勤務しながら、ニューヨーク周辺の荒廃していた都市中心部の再生計画に携わった。留学と合わせ、アメリカでの滞在期間は約3年半。濃密な体験と得た知見を手に、帰国したのは77年、28歳の時である。

留学中もご縁の続いていた槇さんの事務所でまたお世話になり、研究のお手伝いをしていました。1年ほど経った頃、芦原さんから電話がありましてね、「君のことに興味を持っている人がいるから、会っていらっしゃい」と言う。その人物が、当時の日本設計の社長だった池田武邦。内心、就職の件かなと思いつつ、実際に話を聞いてみると、とても自然な感じで仕事ができそうだと感じたのです。僕はアメリカで勉強したことを生かしたかったから、都市計画部への配属を希望したところ、受け入れてもらえたという流れです。

心地いい職場で、やりたかった仕事に入りました。とはいえ、当時は分析が主体で、大きなタイムスパンの、まだビジュアル的には具体的でないものをレポートにまとめる仕事がメイン。報告書が成果品というわけです。次第に何か違うなぁ……実体としての都市デザイン、つまり広大な敷地や複数街区の大規模設計をしたいと考えるようになり、社長にわがままを言って、建築設計部に移らせてもらったんです。

わがままといえば、入社した年に、自分で希望して箱根のワークショップにも行かせてもらいました。環境デザイナーであるローレンス・ハルプリンが主催するもので、チームの集団的思考による創造のプロセスを学ぶためです。もともと入社前にも、川喜田二郎のKJ法を学ぶ移動大学に参加したりと、僕にはそういう志向があった。だから「チームで創造する」という日本設計のスタイルとはベクトルが重なった気がして、「いいところに来たな」と。

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体力・気力の限りを尽くし、仕事に没頭。数々の意欲作を世に出す

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PROFILE


1948年4月20日 京都市中京区生まれ
1971年6月 東京大学工学部建築学科卒業
1973年3月 東京大学大学院修士課程修了
8月 フルブライト奨学生として渡米
1975年6月 プリンストン大学大学院
建築都市計画学部修士課程修了
1975年9月 エーブレス・シュワルツ都市計画事務所
(ニューヨーク)
1977年2月 槇総合計画事務所入所
1978年2月 株式会社日本設計入社
2001年4月 同社取締役副社長
プロジェクト統括本部長
2006年4月 同社代表取締役社長
2013年10月 同社取締役会長
2017年12月 同社最高顧問

 

公職

日本建築学会副会長(2012年5月~2014年5月)
日本建築家協会会長(2016年6月~)

 

教職

慶應義塾大学理工学部非常勤講師(2002年~2017年)
東京大学工学部都市工学科非常勤講師(2003年~2006年)
京都大学工学部建築学科非常勤講師(2007年~2009年)
早稲田大学、東京大学、京都大学、明治大学などで特別講義

 

主な受賞

日本建築学会賞(新宿アイランド)
BCS賞(新宿アイランド、日本橋三井タワー、
虎ノ門ヒルズ、徳島県庁舎)
ほかグッドデザイン賞、サステナブル建築賞、
日本照明賞、日経ニューオフィス賞など多数

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