アーキテクト・エージェンシーがお送りする建築最先端マガジン

Architect's magazine

「その場所に、どんな建物や空間を構えれば人々が幸せになれるか」。機能や造形ばかりにとらわれず、人の舞台をつくることが建築家の重要な役割だと思う

「その場所に、どんな建物や空間を構えれば人々が幸せになれるか」。機能や造形ばかりにとらわれず、人の舞台をつくることが建築家の重要な役割だと思う

古谷誠章

母校である早稲田大学で長く建築学の研究・教育に携わり、またプレーヤーとしても数々の受賞作を生み出してきた古谷誠章は、まさに正道を行くプロフェッサー・アーキテクト。学生たちと一体となり、建築単体のデザインのほか、まちづくりや地域再生といった実社会との連携事業も手がけ、多岐にわたってその手腕を発揮している。代表作として挙げられる「アンパンマンミュージアム」「神流町中里合同庁舎」「茅野市民館」などに共通しているのは、古谷のこだわりでもある融通無なつくり。人がその時々によって自由に使い分け、楽しむことができる建物、空間づくりは、これからの建築の有り様を一つ示唆するものだ。「建築は人の舞台をつくる仕事だから」という古谷の言葉は、とても印象的である。

母校での助手時代を経て、教育と設計を活動の両輪とする道へ

早稲田大学は伝統的に多くのプロフェッサー・アーキテクトを擁しており、古谷の在学中当時には安東勝男、池原義郎、穂積信夫、吉阪隆正、武基雄といった高名な建築家たちが教鞭を執っていた。そのなか、古谷が師事したのは「アメリカで建築を学んだ穂積先生」。大学院修了後も穂積研究室に助手として残り、様々な実施設計を手伝ったことが、今日の古谷へとつながっている。

大学院を出る時、実は槇文彦先生の事務所に就職が決まっていたんです。ただ当時は、採用されても「2年くらいはよそで修業して待つ」というウェイティングがあって、僕はその間、穂積先生のお声がけで本庄高等学院の設計をお手伝いしていました。早稲田大学附属の2番目の高等学院です。練馬区にある早大学院に比べれば3分の1の規模で、いわば〝コンパクトな埼玉版〞になるのかと思っていたら、穂積先生の考えは違って、「本当に好きなことができる学校にしよう」と。教育関係者とディスカッションを重ね、新しい学校をつくるために労をいとわず学び、専門家の意見も聞く。いわゆる〝一般の仕事〞とは別物で、次第に「大学だからこういうことができる」とわかってきたんです。普通の設計事務所が業務としてやっていたら、たちまち赤字になっちゃいますからね。結果、どうしても斬新なものが生まれにくい。

ここが大きな分岐点。大学での仕事は魅力的だったし、穂積先生のそばで、僕自身も自然に教育と設計を活動の両輪にしようと考えるようになったのです。途中「そろそろ槇先生の事務所に……」というタイミングはあったのですが、穂積先生から「来年も」などと言われているうちに、時が過ぎていきました。実は「槇先生にはお許しをもらってある」という話があって、僕の人事は知らぬところで決まっていたらしいです(笑)。高等学院の完成を見たあともいろんな仕事に携わり、結局6年間、僕は助手として早稲田大学に在籍していました。

一度リセットして武者修行に出ようと考えた古谷は、文化庁の芸術家在外研修制度(当時)に応募。狭き門を突破して、86年から1年間在籍したのがスイスの建築家、マリオ・ボッタ事務所である。一方、広島県にある近畿大学工学部から「設計のできる教員」として招聘されたのもこの時期で、古谷はしばらく東京を離れることになった。

近大からお誘いを受けたのは、文化庁に応募した留学が叶うかどうか、結果を待っていた時期でした。採択は非常に厳しく、僕としては〝捕らぬ狸の皮算用〞ではありましたが、準備は進めていたんですね。でも近大の件は、それなりの先生の推薦を受けての話で、むげには断れません。とはいえ、広島はちょっと遠すぎた……。一人目の子供が生まれた頃でしたし。

踏ん切りがつかなかったので、一度実際に行ってみようと。広島駅から車で海岸線を走っていると島々が見えてきてね、これがまたいい感じ(笑)。本当に田舎にある大学ですが、子育てするには環境がいいし、熱心に誘ってもくださるし、悪くないなと思い始めたのです。でもスイス留学の可能性があったので、その旨を学校側に伝えたところ、「若い先生にはいい刺激になるし、合格したらぜひ行ってらっしゃい」と言われ、ますます断る理由がなくなっちゃった。それで86年の春からお世話になったのですが、追ってすぐ、文化庁から合格通知が届いたんですよ。ありがたいことに、学校側は言葉どおりに送り出してくださった。1年後に戻ってきたら、しっかり教育に就いて期待に応えようと思いました。

この時代に、研究室の学生たちの協力を得て一生懸命つくったのが初めての個人住宅「狐ケ城の家」です。上司にあたる近大の先生が依頼してくれたもので、「家に関する要望は何もない。ただ、とにかくこれで賞を取れ」と。僕に何か活躍の場を、という思いで言ってくださったようです。ありがたいことに、結果、この処女作で吉岡賞をいただくことができました。

足掛け8年いた広島生活は、すごくよかったですね。コンパクトシティは動きやすく、中核都市の外側にあるルーラルな土地にはそれぞれの文化や風土があり、それらを身近に経験したのは大きい。そして培った中国、四国、九州のネットワークは今も生きていて、財産になっています。振り返ると、この時期はまさにバブルの絶頂期。もし東京にいたら、考える間もなくいろんな仕事やお金に巻き込まれて、僕は消耗していたかもしれません。

【次のページ】
大学と開設した事務所でイノベーティブな建築を重ねていく

ページ: 1 2 3 4

PROFILE

古谷誠章

古谷誠章

1955年2月20日 静岡県富士市生まれ(東京・世田谷育ち)

1978年3月 早稲田大学理工学部建築学科卒業

1980年3月 早稲田大学大学院博士前期課程修了

4月 早稲田大学大学院穂積研究室助手

1983年4月 早稲田大学理工学部建築学科助手

1986年4月 近畿大学工学部講師

9月 文化庁芸術家在外研修員としてマリオ・ボッタ事務所に在籍

1990年4月 近畿大学工学部助教授

1994年4月 早稲田大学理工学部建築学科助教授

9月 八木佐千子と共同でナスカ一級建築士事務所を設立

1997年4月 早稲田大学理工学部建築学科教授

2017年6月 日本建築学会会長

家族構成=妻、息子1人、娘1人

人気のある記事

アーキテクツマガジンは、建築設計業界で働くみなさまの
キャリアアップをサポートするアーキテクト・エージェンシーが運営しています。

  • アーキテクトエージェンシー

ページトップへ