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21世紀の建築はどうあるべきか。地球全体に、どう寄与していくか。僕らの世代は、その道筋をつけていく責務があると思う

21世紀の建築はどうあるべきか。地球全体に、どう寄与していくか。僕らの世代は、その道筋をつけていく責務があると思う

仙田 満

26歳で独立した時、仙田満(せんだ・みつる)は自分の名を冠した事務所ではなく、「環境デザイン研究所」という屋号で旗揚げをした。建築だけでなく都市、造園、インテリア、展示、遊具、プロダクトデザインなど、広い領域で設計に携わっていく――そう決めていたからだ。以来50年近く、仙田は“環境デザイナー”として、才を発揮した数多の作品を発表、その世界を切り開いてきた。なかでも、成育環境のデザインという分野では第一人者である。子どもが元気に育つ環境づくりをライフワークとしながら、日本建築学会や日本建築家協会の会長職も務め、業界を俯瞰した社会活動にも尽力。「今の社会システムを変えなければ、日本の環境デザインは育たない」。穏やかな風情ながらも、仙田の胸には次代への熱き思いが溢れている。

「環境デザイナー」としての礎を築く。そして独立へ

 大学卒業後、「菊竹清訓建築設計事務所」に入所。実のところ、意中だったアトリエの採用試験に落ち、いくつか当たった先の一つだったが、仙田は、同事務所に在籍した4年間を「僕の大学院時代だった」と表現する。新人だろうとかまわず仕事を任せる菊竹氏のやり方に鍛えられ、厳しかったが、仙田はここで大きな学びを得たのである。

東京は麻布十番からほど近い場所に建つ、地上5階、地下1階のビルが、環境デザイン研究所の本部。大量の蔵書に囲まれた、仙田氏の執務室で。

僕は怒られやすいのか、とにかく菊竹さんからは怒鳴られてばかり。いつでも辞められるようにと、通勤定期ではなく毎日切符を買って通っていたくらいですから(笑)。でも、叱られる度に自分でメモしてきたことはすごく勉強になったし、何より、面白い仕事と経験を十二分にさせてもらいました。

最初にやった仕事は、「国際建築展」という日本の建築を海外に紹介する展覧会です。入所1年生の僕がすべてのワーキングを任され、有名な写真家やグラフィックデザイナー、翻訳家とのやり取りから、お金の管理まで全部。写真家に依頼する際、報酬の相場を知らずに交渉して、「二度と来るな」と言われたりしながらも(笑)、どういう人たちと、どういう時間内、予算内で、プロジェクトを仕上げていくか――建築の仕事でとても大事なことを、早くから学ぶことができました。

そして2年目で手がけたのが「こどもの国」。僕が、子どものあそび環境の領域を柱にするようになった源の仕事です。自然型の児童遊園地で、僕は林間学校をつくったのですが、この時児童遊園をデザインした彫刻家のイサムノグチさんや、造園家の伴典次郎さんに出会ったことは貴重でした。建築以外の魅力的な世界の広がりを教えてもらったことで、やはり建築というものは、いろんな領域と一緒になって環境全体を考えていくべきなんだと、気づくことができた。大学生の時に、その重要性を感じていたコラボレーションを実践し、異分野と協働する楽しさを知ったのです。4年間ではあったけれど、僕は、これらの仕事を経験させてもらったおかげで、自分の“芯”のようなものができたと思っています。

 1968年、仙田は「環境デザイン研究所」を立ち上げる。その名に込めた思いは冒頭に触れたが、さらには、研究所の機能を有すること、そしてコラボレーションができる事務所であること。明確なスタンスに立ってのスタートだった。住宅の仕事を皮切りに、「こどもの国」を担当した経験から造園コンサルタントとしても活動するなど、仙田は多彩な領域に挑んでいく。

 僕のなかで存在が大きいのは、30歳の頃につくった「野中保育園」ですね。のちに僕が組み立てた、子どもがあそびやすい空間の構造“遊環構造”という理論を先取りした建築物です。バルコニーなどは子どものスケールになっていて、各保育室の屋根裏部屋はダーッとつながっているとか、8000m²の泥んこ場があるとか。自由教育を理想とし、大地保育を創始した塩川豊子先生とディスカッションを重ね、思いどおりにつくれた保育園です。40年以上経った今も見学者が多く訪れ、保育業界ではけっこう有名だと思いますよ。

子どもたちのあそび環境について、自主研究を始めたのもこの頃です。菊竹事務所時代、「こどもの国」に携わったことで、あそび環境、つまり空間、時間、集団、方法という4つの要素がすごく変わってきたと感じていたので、その変化を明らかにしたいと思っていたのです。それが、横浜で行った「こどものあそび環境の研究」で、大会の論文として建築学会に発表しました。

実はこの研究が、事務所の危機を救ってくれたんですよ。73年のオイルショック当時のこと。「こどもの国」による縁で、厚生省などからいろんな声がかりがあったのですが、このオイルショックで総需要抑制策が採られ、プロジェクトが全部ストップになった。公共事業のほとんどが止まった時期です。そんな時、たまたま新聞で見つけたのがトヨタ財団の研究助成プログラムで、それに応募したんです。建築学会に出した一編の論文と、研究計画をセットにして。そうしたら運よく通って、3年間で780万円の助成を受けることができた。今だと、10倍くらいの金額になるでしょうか。みんなで研究しながら、事務所の危機を乗り切ったというわけです。

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指導者、公職者として。社会活動にも尽力する日々

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PROFILE

仙田 満

仙田 満
Misturu Senda
1941年12月8日横浜市保土ケ谷区生まれ
1964年3月東京工業大学理工学部建築学科卒業
             4月菊竹清訓建築設計事務所入所
1968年4月環境デザイン研究所を設立し、

代表に就任

2001年6月日本建築学会会長(~2003年)
2004年4月こども環境学会会長(~2010年)
2005年4月東京工業大学名誉教授
            10月日本学術会議会員(~2011年)
2006年6月日本建築家協会会長(~2008年)
2010年4月公益社団法人こども環境学会代表理事
主な受賞歴
  • 毎日デザイン賞(1978年)
  • BCS賞(1987年、2011年)
  • BCS賞(1987年、2011年)
  • 日本造園学会賞(1996年)
  • 日本建築学会賞(1997年)
  • IOC/IAKS賞 (1997年、2001年、2005年、2009年、2011年)
  • アルカシア建築賞ゴールドメダル(2010年)
  • 日本建築家協会賞(2010年、2011年)
  • 村野藤吾賞(2011年)
  • 日本建築学会大賞(2013年)

ほか多数

講師・教授歴
  • 日本大学芸術学部講師
  • 早稲田大学理工学部講師
  • 琉球大学工学部建設工学科教授
  • 名古屋工業大学社会開発工学科教授
  • 東京工業大学工学部建築学科・ 大学院理工学研究科建築学専攻教授
  • 慶應義塾大学大学院特別研究教授
  • 愛知産業大学大学院教授、放送大学教授

などを歴任

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