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その場所が気に入った、 そこにいたい…… 人が湧きだしてくるような空間。 それも百人、千人単位でいることが 絵になるような空間を、つくりたい

その場所が気に入った、 そこにいたい…… 人が湧きだしてくるような空間。 それも百人、千人単位でいることが 絵になるような空間を、つくりたい

小嶋 一浩

大学院在学中に「シーラカンス」(のちC+A、CAtに改組)を共同設立して以来、小嶋一浩は、主に公共建築において多くの話題作を生み出してきた。とりわけ著名なのは学校建築で、代表作「千葉市立打瀬小学校」「宇土市立宇土小学校」「ホーチミンシティ建築大学」などは、今も際立った存在感を放つ。貫かれているのは、建築や都市のなかに、空間の面白さ、自由さを獲得するというこだわりだ。それを実現するための思考は、「アクティビティ」「スペースブロック」「黒と白」などといった独自の言葉に還元されているが、同時にこれらは、新たな建築のありようを示す道標にもなっている。

自力で引き寄せた学びの機会。そして東大大学院へ

ところが折悪く、小嶋が京都大学に入学した年、お目当てだった増田・上田両氏は大学を去ってしまい、〝空席だらけの時代〞を迎えることになる。今でこそ、大学で活躍するプロフェッサー・アーキテクトの存在は珍しくないが、小嶋らの時代には、ロールモデルとなる建築家と触れ合える場はそうそうなかった。「大学を辞めようか」と思ったこともあるが、小嶋は自ら動くことで学びの機会をつくっていった。

2回生の時、先輩が教えてくれたのです。オープンデスクという制度や、「学生主催で講演会をやりたい」とお願いすれば、著名な建築家であっても意外に応じてくれるという話を。当時の京大には講評会などもなく、取り組んだ課題に対する評価を受けることもできなかった。とにかく、建築家とライブで接してみたくて、仲間と一緒に講演会を開催するようになったのです。声をおかけしたのが、かつて子供の頃に見た建築雑誌で影響を受けた東孝光さんや、槇文彦さんたち。講演だけでなく設計課題も見てもらいたくて、「気になった案だけコメントしてください」というような自主的な講評会も運営したり。気さくな人柄の東さんとは、京都駅前の赤提灯でもご一緒し、「建築家もこういう店で飲むのか」と思ったものです(笑)。なかでも「設計をやりたいのなら、よほどの事情がない限り、独立した建築家以外ありえません」という東さんの言葉は印象的でした。講演会のチケットをつくって、販売のために、関西の大学で建築学科のあるところを訪ねるわけですが、それは半ば名目で、皆がどんなことをやっているのか見て回ったりもしていました。だから、大学に入ってからは、少なくとも建築のデザインについては、学校から逃げず積極的に動いたつもりです。実のところ、建築家を目指すにしても保険をかけておかなきゃヤバイと、
弁護士の道も考えていたんです。建築家になりたいなんて、10代の女の子が売れっ子アイドル歌手を目指すのと同じくらいの感覚でしたから。在学中も独学で司法試験の勉強をしていたんですが、幸いにして受験はしなくて済んだ(笑)。

「京大は、人格的に素晴らしい先生はいても、建築家になるためのアドバイスを得られる環境ではなかった」。次の道として大学院に進もうと考えた小嶋は、この時も専門誌などを介して調べを尽くしている。最終的に選んだ先は、東京大学の原広司研究室だった。

70年代当時、原研究室といえば集落調査で有名でしたが、僕が入った頃には「そんなの5年くらい前に終わっている」と言われ……。原さんの興味は数学に移っており、研究室ではグラフ理論の固有値に関する勉強会とかをやる。僕、何が苦手って数学ですからね(笑)。入門書を読んで努力しても全然ダメ、頭に入ってこない。これは大変なところに来てしまったと。でもよかったのは、研究室にパリのラ・ヴィレット公園コンペの招待状が来て、参加できたことです。時間はあるから、同期の仲間と勝手に案をつくり始めたところ、原さんが「珍しい学生がいるもんだ」と乗ってきた。やるとなったら一緒に泊まり込みながらという力の入れ具合で、結果的に、僕らの案は佳作に入選したのです。その後、入選案はすべてフランスのポンピドゥー・センターで展覧会として扱われることになり、訪れてみたら、本当に展示されていて感動ものでした。「原研究室は世界につながっている」。そう思いましたね。僕にとって、この経験は大きかったです。

博士過程に進んだのも、原さんが声をかけてくださったから。この時にはグラーツで行われた国際建築展や、ミネアポリスの展示会に携わりました。現地に滞在しながら、あちこちを巡ってね。年の3分の1は研究室で泊まり込み、3分の1は海外、そして残りは資金稼ぎのためのアルバイトという感じの生活でした。やっていることは面白いし、海外の展示会を仕切れる経験なんて貴重なのですが、ただ一方で、建築実務とは程遠いことをやり続けていることへの焦りみたいなのはあった。就職した仲間は、こっちが知らない言葉でディテールをしゃべっているし、「俺、建築をつくれるんだろうか」と思った時期もあったのです。

その突破口になったのが、最初に設計した「氷室アパートメント」。展覧会活動の合間を縫って、東京と大阪を行き来しながら、実家の畑に建てたものです。それをSDレビューにエントリーしたら、朝倉賞をいただけて、自分たちの事務所「シーラカンス」を開くきっかけになったのです。

小嶋/本文挿入画像3

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早々に先鋭集団として注目され、学校建築で一躍メディアにも登場

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PROFILE

小嶋 一浩

小嶋 一浩

1958年12月1日 大阪府枚方市生まれ

1982年3月 京都大学工学部建築学科卒業

1984年3月 東京大学大学院修士課程修了

1986年 東京大学博士課程在学中に、伊藤恭行氏(現CAnパートナー)らと

「 シーラカンス」を共同設立

1988~91年 東京大学建築学科助手

1998年 C+A(シーラカンス アンド アソシエイツ)に改組

2005年 CA(t C+A tokyo)と CAn(C+A nagoya)に改組

2005~11年 東京理科大学教授

2011年~ 横浜国立大学大学院建築都市スクール“Y-GSA”教授

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