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機能ばかりに固執してきた近代建築の思想は、根本から変えなきゃいけない時代にきている

機能ばかりに固執してきた近代建築の思想は、根本から変えなきゃいけない時代にきている

伊藤豊雄

2013年5月、“建築界のノーベル賞”と称されるプリツカー賞を受賞した伊東豊雄。周知のとおり、我が国を代表する建築家の一人である。様々な素材と表現形式に挑むことで、建築スタイルを革新し続けてきた伊東の根源にあるのは、常に「社会」と向き合おうとする姿勢だ。人々の営みや自然環境に真っ直ぐな視線を注ぎ、建築、そして建築家の在り方を常に問うてきた。72歳となった今も、伊東は、世界的なプロジェクトを牽引する一方、今般の行き過ぎた近代主義に異を唱え、「世紀の建築原理」を確立するべく先鋭的な活動に取り組んでいる。「建築家の肖像」初回は、そんな伊東のしなやかなる軌跡をひもといていく。

長い寡作の時代を経て、公共建築に乗り出す。そして、迎えた“転機”

何のアテもない状態で事務所を辞めた伊東は、しばらく「ぶらぶらしていた」。30歳の時に「アーバンロボットURBOT」(79年、伊東豊雄建築設計事務所に改称)を設立するも、閉塞感が強く、第一次オイルショックが追い打ちをかけたこの時代、決していい船出ではなかった。ほとんど仕事がなく、伊東が建築家として世に出るのは、まだしばらく先の話である。

志があったというより、「自分でやるしかないなぁ」という成り行き的な独立でした。ちょうどこの頃、下諏訪で味噌屋をやっていた義兄夫婦が、店を畳んで上京することになり、東京での住居と、義兄が新しい商売のために建てる小さなビルを設計させてもらったのです。それが、ぶらぶら中の仕事(笑)。家のほうは「お前の好きにつくっていい。その代わり設計料はなし」、ビルはその逆で「設計料は払うから、要望どおりにつくってほしい」。そんな交換条件でね。この時の住宅が「アルミの家」で、僕の独立第1号の仕事です。

義兄のビルの一角を間借りして自分の事務所を構えたのですが、もう食うや食わずですよ。「手伝わせてください」と来てくれたスタッフにも、給料なんて払えない。道路公団にいる友だちがバース描きの仕事を紹介してくれて、当時30万円ほどもらえたから、「これで1カ月、みんなで食おう」みたいな(笑)。あとは親戚、友人の住宅を細々とやりながら……3カ月先までは持つが、その先は見えないという状態が長らく続いていました。でも、周りにそんな連中も多かったし、「何とか食っていけるんだろう」くらいの調子ですよ。

そもそも、僕らは営業ができないというか、しない。頭を下げて取った仕事は、思うような設計ができませんから。ゼネコンの設計部の下請けをやって食いつなぐ道もありましたが、言われたとおりの図面を描くだけの仕事でしょ。「それは絶対にやらないぞ」と。とまぁ、仲間うちでそんな議論をしているものだから、カッコ悪くてできない(笑)。外に行って飲むお金はないので、酒を持ち寄って、目指す建築を仲間たちと喧々諤々やり合う。今思えば、楽しくて本当にいい時代でした。

80年代半ばから、いわゆるバブル景気となり、伊東の仕事も、商業建築など少しずつ広がりを見せるようになってきた。そして、以降の大きな足掛かりになったのが、91年に発表された「八代市立博物館未来の森ミュージアム」である。伊東の公共建築第1号だ。50歳になっていた伊東の、遅まきの躍進がここから始まる。

博物館のプロジェクトは、コミッショナーを務めていた磯崎新さんの推薦を受けて参加したものですが、これができたのが大きかった。不特定多数の人が利用する施設ということでプレッシャーはあったけれど、完成した博物館は、表現の部分で「非常に新しい」と評価していただけた。ただ、展示そのものが弱くて、「楽しい博物館だね」という評価にはならなかった。贅沢な話ですが、結果的に僕は、それではつまらないと思ったんですよ。新しさ、楽しさ。かたちの問題ではなく、建築家が社会に対して「人々のためにこういう場を」と提案すること、それが公共建築の一番の難しさであり、面白さであると考えるようになったのです。

その点で「せんだいメディアテーク」は、最大の転機となった仕事ですね。図書館やギャラリーなど、4つの機能を複合させることから始まった施設ですが、僕は「どこで何をやってもいいじゃない」という発想で、いわば公園や広場みたいな空間を提案したんです。それでコンペに勝ったのですが、いざ始まってわかったのは、発注者は通常の公共施設を求めていたということ。コンペ審査員と、自治体の考えに大きなギャップがあったのです。最初は衝突の連続で、途中何度も、模型をぶん投げて帰ろうかと思った(笑)。

でも、根気よくギャップを埋めていく作業を続けるなか、地元の大学の先生方が後押ししてくれたり、役所内に“味方”ができたことで、一つ一つを共に考えながら解決していったのです。この過程で、考え方が大きく変わりました。どこかで「俺の設計が一番だ!」と思っていたのが、市民や様々な関係者と議論をし、その声を組み込んだほうが面白いものができると。建築は社会に役立つべきもの、その本質が見えてきたのです。「せんだいメディアテーク」は、僕に多くのことを教えてくれました。今、仙台の人たちが楽しんで使ってくれていること、施設のスタッフもプライドを持って頑張ってくれていることが、何よりうれしいですね。

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後進の育成と共に、“次なる建築”をリード。挑戦はさらに続く

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PROFILE

伊藤豊雄

伊藤豊雄
1941.6.1京城府(現大韓民国ソウル市)生まれ
1965.3東京大学工学部建築学科卒業
1965.4菊竹清訓建築設計事務所入所
1969.4菊竹清訓建築設計事務所退所
1971.3株式会社アーバンロボット URBOT設立
1979.7株式会社伊東豊雄 建築設計事務所に改称
主な受賞歴

日本建築学会賞作品賞(1986年、2003年)

日本芸術院賞(1999年)

ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞 (2002年に生涯業績部門、2012年にコミッショナーを務めた日本館)

王立英国建築家協会(RIBA) ロイヤルゴールドメダル(2006年)

高松宮殿下記念世界文化賞(2010年)

プリツカー賞(2013年)

ほか多数

 

 

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